(※関連記事:『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』)
まず、誰もがタンマカーイであると判別できる特徴をあげてみる。
〇仏塔
タンマカーイの仏塔は、タイの伝統的な様式(伝統的といっても、地方によってもその様式は異なるが)とは大きく異なり、まるでUFOのような、巨大な円盤のような形をした仏塔である。
その仏塔の容姿は、誰が見ても非常に強く印象に残る。
ちなみに、タンマカーイ寺院が使用しているロゴマークも、この仏塔をデザインしたもの。
〇仏像
タンマカーイの仏像もまた、タイの伝統的な様式の仏像(仏像の様式もまた時代によって様々ではあるが)とは大きく異なり、非常に特徴的なもので、一目でタンマカーイの仏像とわかる。
言葉では説明が難しいが、マネキンのようなどこかリアルな人の姿を現したもののような印象を受ける。
それは、すでに“タンマカーイ様式”ともいえる独特なものと言っていい。
さらに、大乗仏教的思想が入っているということを挙げることができる。
もっともこれは、公式な場で聞いたものではなく、私が僧坊を同じくした僧侶達から教えられた事柄である。
よって、タンマカーイの公式な教学としては存在しないのかもしれないが(もちろん上座仏教であるので、タンマカーイ独自の教学というものは本来ならばあり得ないはずである。)、一般の僧侶からこのような教えを聞くことができるということは、内部において類似することがらが教えられているという可能性を考えることができる。
さらに、大乗仏教的思想が入っているということを挙げることができる。
もっともこれは、公式な場で聞いたものではなく、私が僧坊を同じくした僧侶達から教えられた事柄である。
よって、タンマカーイの公式な教学としては存在しないのかもしれないが(もちろん上座仏教であるので、タンマカーイ独自の教学というものは本来ならばあり得ないはずである。)、一般の僧侶からこのような教えを聞くことができるということは、内部において類似することがらが教えられているという可能性を考えることができる。
あくまで私の想像の域を脱し得ないが、非常に興味深い。
では、以下に紹介することとする。
〇タンマカーイにみる大乗仏教的思想
タンマカーイ(※)に至るには、個人の持つ『徳』により、早いか遅いかの違いがあるが、一生懸命に瞑想をすれば誰にでも到達が可能な境地である。
※タンマカーイ・・・パーリ語:ダンマ・カーヤのタイ語訛り。ダンマ・カーヤ=法身。ただし、大乗仏教でいう法身とは意味が異なるので注意が必要。ここでいう「タンマカーイ」とは、この寺院の瞑想法によるひとつの境地をいう。
(関連記事:『ワットパクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』)
そして、タンマカーイの境地に至れば、苦しんでいる人々を助けることができる。
さらに地獄の世界に落ちた人々をも助けることができる。
タンマカーイの境地に至り、さらに進んで涅槃の境地に至ることも可能であるが、タンマカーイの境地に留まり、人々を助けることのほうが望ましい。
ルアンポー(ワット・プラ・タンマカーイの現住職=タンマチャヨー師)は、生きているすべての者を涅槃へと至らせなければ、自分は涅槃へは至らない、と教えているという。
どこかで聞いたことはないだろうか?
まさに、大乗仏教の菩薩道である。
菩薩とは、上座仏教では修行時代のブッダを指し、菩薩の救済というのは上座仏教の教学にはない。
どこかで聞いたことはないだろうか?
まさに、大乗仏教の菩薩道である。
菩薩とは、上座仏教では修行時代のブッダを指し、菩薩の救済というのは上座仏教の教学にはない。
しかし、タンマカーイの境地に留まって救済がなされると説明しているところが非常に興味深い。
タイ仏教の歴史の中では、地獄が強調されるものや阿羅漢が教化するといった要素のものは伝えられているが、タンマカーイのものはタイ在来のそれらとは異なり、特徴的であるといえる。
(関連記事:『阿羅漢と天人』)
タンマカーイでは、出家者、在家者ともに、多くの華僑が信者となっており、その影響を受けたものなのであろうか。
次に紹介するものは、寺で説法を聴いた時に受けた印象である。
〇堕地獄と生天
タンマカーイで特に印象に残るのは、『地獄』と『天』についての説法である。
もっとも、『地獄』は、タイの仏教では「業」の思想と共に広く一般に浸透しているものではあるが、タンマカーイでは特に強調されているような印象を受ける。
一般のレベルでは、善行を積み、瞑想を行うという行為は、涅槃を求めるための修行というよりも、来世は現世よりもよりよい境地に生を受けるため、あるいは天界に生を受けて苦しみのない日々を過ごしたいという願いによるところが大きい。
阿羅漢の境地を求めたいといったような、より深く仏教を追求する者を除けば、堕地獄と生天の考え方は、タイではごく一般的な仏教理解であるといえる。
タイ仏教の歴史の中では、地獄が強調されるものや阿羅漢が教化するといった要素のものは伝えられているが、タンマカーイのものはタイ在来のそれらとは異なり、特徴的であるといえる。
(関連記事:『阿羅漢と天人』)
タンマカーイでは、出家者、在家者ともに、多くの華僑が信者となっており、その影響を受けたものなのであろうか。
次に紹介するものは、寺で説法を聴いた時に受けた印象である。
〇堕地獄と生天
タンマカーイで特に印象に残るのは、『地獄』と『天』についての説法である。
もっとも、『地獄』は、タイの仏教では「業」の思想と共に広く一般に浸透しているものではあるが、タンマカーイでは特に強調されているような印象を受ける。
一般のレベルでは、善行を積み、瞑想を行うという行為は、涅槃を求めるための修行というよりも、来世は現世よりもよりよい境地に生を受けるため、あるいは天界に生を受けて苦しみのない日々を過ごしたいという願いによるところが大きい。
阿羅漢の境地を求めたいといったような、より深く仏教を追求する者を除けば、堕地獄と生天の考え方は、タイではごく一般的な仏教理解であるといえる。
そうしたタイの思想的背景の中にあってなお強調されていると感ずるということは、よほど強調されているのであろう。
また、タンマカーイでは、飲酒や喫煙が堕地獄の原因であると強調されており、布施や持戒が生天のための善行であると強調する。
また、タンマカーイでは、飲酒や喫煙が堕地獄の原因であると強調されており、布施や持戒が生天のための善行であると強調する。
さらに、これらの内容を盛り込んだ歌やアニメを様々な映像や画像と組み合わせて、説法の間に放映したりもされる。
余談ではあるが・・・アニメや様々な映像や画像と組み合わせた説法は、視覚と聴覚の双方から訴えるもので、子どもから大人までわかりやすい。
タイの寺では、地獄の絵や天界の絵などをよく見かける。
余談ではあるが・・・アニメや様々な映像や画像と組み合わせた説法は、視覚と聴覚の双方から訴えるもので、子どもから大人までわかりやすい。
タイの寺では、地獄の絵や天界の絵などをよく見かける。
いわゆる「絵説き」であるが、タイでは特に珍しいものではない。
善行や瞑想といった「徳」のある行いを勧めるというように個人の積徳が説かれること自体は珍しくはないが、これらを歌やアニメを様々な映像や画像と組み合わせて、さらに巨大モニターを駆使して放映しているという点は、現代版リニューアルだとも言え、非常に斬新だ。
しかし、経済成長が著しく、発展した当時のタイにおいても、こうした手法はまだまだ珍しかった。
ちなみに、説法は国内国外の各支部へ衛星中継されており、同時に世界の各地で聴聞することができる。
説法の衛星生中継というのも驚きである。
この堕地獄と生天の強調は、タンマカーイのひとつの特徴であるといえるのではないかと思う。
このように堕地獄と生天、そして瞑想と大乗仏教的な救済という構図が浮かんでくる。
タイ人は、徳を積むために寺へ足を運ぶ。
この堕地獄と生天の強調は、タンマカーイのひとつの特徴であるといえるのではないかと思う。
このように堕地獄と生天、そして瞑想と大乗仏教的な救済という構図が浮かんでくる。
タイ人は、徳を積むために寺へ足を運ぶ。
お布施をする。
瞑想をする。
誰のために徳を積むのか・・・それは、もちろん自分のため。
誰のために徳を積むのか・・・それは、もちろん自分のため。
あるいは、両親のため、親しい人のためであったりと様々である。
そのような背景の上にタイ仏教が成り立っている。
タンマカーイにおいてもその根底は、そのようなごく普通のタイにおける仏教と変わらない。
しかし、タンマカーイにはタイの伝統的な仏教の枠組みの中には収まらない、タイの伝統的な仏教との違いを感じる。
関連記事:
〇『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』
〇『ワットパクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』
〇『ワット・プラ・タンマカーイ~寺院での出家生活~』
(『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』)
しかし、タンマカーイにはタイの伝統的な仏教の枠組みの中には収まらない、タイの伝統的な仏教との違いを感じる。
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