タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2025/09/09

私がピンク色のガネーシャ像を知らなかった理由


タイと言えば、ピンク色のガネーシャの像で有名なワット・サマーン・ラッタナーラームという寺院が有名だ。


多くの日本人にとって、何らかの形で、一度は目にしたことがあるであろうタイの風景なのではないだろうか。


ところが、私がこの神像のことを知ったのは、ついこの間のことである。


そう、日本へ帰国した後のことだ。


タイに滞在していた時には、全く聞いたことも無ければ、見たことも無かった。



それにしても、なぜ、このような超有名寺院のことを知らなかったのだろうか・・・?






たーれっく氏撮影

ワット・サマーン・ラッタナーラーム寺院の
ピンク色のガネーシャ像
(※掲載の許可をいただいています。)






タイ全土にその名が知れ渡っていて、ご利益も甚大な神様ともなれば、神様とは触れることがない森の僧院と言えども、やはり嫌でもその“噂”は耳に入ってくるものだ。


そこは、いくら出家とはいえ、タイ社会の中にある“出家の社会”なのだから、有名なものや流行のもの、おおよその世間の出来事などは、やはり『情報』としてたくさん入ってくる。


社会から隔絶されている空間ではあるけれども、完全に隔絶されているわけでもないわけだ。



特に私の場合は、『外国人』であるがゆえに、珍しい場所や観光地(多くの場合は寺院)などへは、“お布施として”連れて行ってもらえることも多々あった。


(※僧侶に対してそうした観光的な要素を含むものをお布施される場合があり、そうしたことも“徳”のある行為のひとつとされる。)



話を元に戻すと、一応は一般の社会から隔絶された僧院で生活をしていたとしても、タイ国内にある有名なご利益寺院や有名な神様などについて、何らかの形でその“噂”を知ることができる。


しかし、全く知らなかったのというのは、なぜなのだろうか・・・?


実は、それもそのはずで、ワット・サマーン・ラッタナーラーム寺院のピンク色のガネーシャの像は、一般的な参拝を目的として2011年に建立されたもので、ごく最近の比較的新しい建造物だからだ。



それと、もうひとつ大きな理由がある。


神様にも“流行り”があるという点だ。


バンコク在住の日本人漫画家であるたーれっく氏によれば、近年、タイではスピリチュアルブームの波が起こっており、その影響によって神様の像やその礼拝施設などがタイのあちらこちらに建立されているそうである。


私があまりタイの神様について、タイ現地の人からの情報に触れることがなかったのは、僧院での出家生活という環境的な要因があったことと、私がタイに滞在していた期間は、まだ“神様の流行”の波がやって来る前だったという事情が重なってのことなのかもしれない。






たーれっく氏著
『タイの神様図鑑』より
(※掲載の許可をいただいています。)




たーれっく氏撮影

ワット・サマーン・ラッタナーラーム寺院の
ピンク色のガネーシャ像
(※掲載の許可をいただいています。)

日本人にも非常に人気の
有名な観光スポットのひとつである。





いわゆるガネーシャは、タイ語ではプラピッカネート(พระพิฆเนศ)といい、以前からタイでも信仰されている神様の一尊ではあるが、このような大規模な礼拝施設が建立されたり、とてつもなく大きな神像や豪華絢爛な施設が建立されたりするようになったのは、ごく最近の出来事なのではないかと私は見ている。


もっとも、私が知らなかっただけで、以前からあったことなのかもしれないが、私が直接見聞きしてきた範囲においては、全く知らないし、見ることもなかった。



『神様にも“流行り”がある』というのは、大変興味深く、日本にもどこか通じるものがあるように感じており、非常に親近感を覚える。


私がタイに滞在していた期間には、そうした流行りの波がまだ来ていなかったということではないだろうか。



神様や信仰の“流行具合”を知るひとつとして、プラ(プラクルアン)というお守りがある。


このお守りの意匠(デザイン)として神々の姿が採用されることがある。


お守りの意匠として人気を博するようになると(そのご利益が定着し、さらに評判が広まってくると)、こうした神像の建立へと発展していくという流れがあるらしい。



私も、いくつかタイのお守りであるプラ(プラクルアン)を持っているのだが、神様のプラクルアンはターオウェーッスワンのお守りを一体持っているだけであり、その他はブッダの姿か高僧の姿のお守りばかりだ。



さて、タイのスピリチュアルブームとは、どのようなものなのだろうか?



一言で言ってしまえば、ご利益信仰ということになるのかもしれないが、非常に人間味あふれるエピソードを持つものが多い印象だ。


是非ともタイ現地へ足を運んで、さらに詳しく調べてみたいと思うほど、強く興味を惹かれる神様がたくさんいるし、またその信仰を表現する“形”も伝統的なものから一風変わった“形”まで実にさまざまだ。



近年、手軽に閲覧できるようなったインターネットニュースなどで、タイの神様を取材した記事をいくつか読んだことがある。


まだまだ私が知らないことがたくさんあるものだと思いながら読んでいたのであるが、言われてみれば、それがそうしたスピリチュアルブームを反映したものなのかもしれない。



私がタイまで行ったのは、仏教を学ぶためであり、仏教の実践行たる瞑想を学ぶためだ。


タイの神様のことについて学ぶためにタイへ渡ったわけではない。


しかし、そうはいっても、タイの信仰は非常に重層的で、仏教の信仰や実践と何ひとつ矛盾することなく共存している。


そのあり方は、とても興味深い。


私の興味・関心を惹かないはずがない。



私が直接知っている範囲など、ほんのごく一部分にしか過ぎない。


私も、たーれっく氏の『タイの神様図鑑』で学びを深めさせていただきたいと思う。


そして、いつの日にかタイの神様に直接お会いすることができればと思う。






たーれっく氏


タイ・バンコク在住の漫画家。

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【関連記事】


『『タイの神様図鑑』が面白い!~在家の信仰と出家の信仰~

(2025年08月29日掲載




【参考記事】


タイ観光案内サイト【公式】:タイ国政府観光庁

ワット・サマーン・ラッタナーラーム

 (ピンクガネーシャの寺院)

https://www.thailandtravel.or.jp/wat-saman-rattanaram/




(『私がピンク色のガネーシャの神像を知らなかった理由』)






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2025/08/29

『タイの神様図鑑』が面白い!~在家の信仰と出家の信仰~


タイにもさまざま神様が存在するということは、以前にも触れている通りであるが、最近、バンコク在住の日本人漫画家であるたーれっく氏がX(旧Twitter)で投稿しておられる『タイの神様図鑑』が大変注目を集めている。


タイの神様がイラストとして視覚化されて描かれているのに加えて、ひとつひとつ丁寧にとてもわかりやすく説明が加えられているのだ。


さらに、タイの神様だけではなく、タイの精霊や幽霊(おばけ)にいたるまで、詳しく解説されており非常に勉強になる。



タイの精霊信仰については、さまざまなタイの研究書にその記述があるので、私も学生の頃から知っていた。


また、インド由来の神々も深く浸透しており、信仰されているということも事前の情報として知っていた。


しかし、それらがタイ現地で具体的にどのように信じられており、どのように理解されているのか、さらにはどのくらいの種類があって、どういった姿をしているのかなど、詳細なことまではさすがにどの研究書にも記載がないためわからなかった。


なかでも特に、仏教とどういった関係にあるのかということは、私の個人的な関心事であったが、やはりその記載はどの書籍にもないので詳しくはわからなかった。









たーれっく氏著
『タイの神様図鑑』より
(※掲載の許可をいただいています。)





さて、私は、タイで3年間生活してきたわけであるが、タイの神様について全くといっていいほど触れることがなかった。


そのため、私の興味や関心も次第に薄れていき、いつしか忘れ去ってしまっていた。


そんな私の興味と関心を再び掘り起こしてくれたのが、たーれっく氏の『タイの神様図鑑』であったのだ。



私は、タイでの生活のほとんどを寺院や僧院で過ごしており、その大半を出家者として生活を送った。


・・・先ほど『タイの寺院で神様や精霊についての話題には、ほとんど触れることがなかった』と記した。


それは、結論から言えば、仏教となんら関係がないから触れることがないのだ。


神々の存在は、上座仏教の教理・教学としても、あるいは実践面すなわち瞑想実践としても、何ら関係がないのである。


特に、上座仏教の伝統を重んじつつ戒律を遵守して瞑想を実践する生活が中心である森の僧院では、そもそもが仏教とは関係のないものとして意図して避ける傾向がある。


ゆえに、私とほとんど接触することがなかったのだろう。








たーれっく氏撮影

タイの寺院のターオウェーッスワン像
日本では、『毘沙門天』である。
(※掲載の許可をいただいています。)





さて、たーれっく氏の『タイの神様図鑑』シリーズは、大変な反響を呼んでおり、たくさんの仏教関係の人たちの間で話題になっている。


そのコメントでは、『タイの上座仏教でも信仰されていたのか!』という声や『タイにもインドの神様がいっぱい!』などといった声が散見された。



ここで特筆すべきことがあるので記しておきたい。


神様に対する信仰は、在家者の信仰であるという点だ。



・・・『タイの寺院で神様や精霊についての話題には、ほとんど触れることがなかった』



これは、それもそのはずで、どういうことかと言えば、タイの神様は“出家者にとって信仰の対象ではない”ということを意味している。


言い換えるとすれば、出家者が信仰すべき対象、あるいは拠り所とすべき対象ではないということだ。



出家者が神様に礼拝することはしない。


そもそも、礼拝することを許されていない。


出家者が手を合わせて敬意を込めて挨拶するのは、ブッダと目上の出家者に対してのみである(関連記事:『タイの神様とお坊さん』)。


そこは、日本の僧侶と大きく異なる点だろう。



ブッダ(釈尊、お釈迦様)によって説かれた教えを実践すること、すなわち自らがブッダが歩んだ道を歩んでいくことで悟りへと向かっていこうとするのが上座仏教である。


瞑想に励み、仏教の学問に励む。


自己の修行のために日々精進し、邁進するのが出家者としての生き方だ。



そこに神様が入り込む余地はない。


神様といえども仏教の世界観から言えば、我々人間よりは境涯が上の存在なのかもしれないが、迷える衆生であることに変わりはないからだ。




とはいえ、一般社会の人々と生活を共にしている街や村の寺院では、一般社会の信仰が寺院の中へも入り込んでいることが少なくない。


寺院によっては、『タイの神様図鑑』に紹介されている神様が寺院内や境内に祀られていることも少なくない。


日本人には馴染みがある大乗仏教の観音菩薩像が祀られていることも珍しくない。


ご存知の通り、上座仏教に観音菩薩は存在しない。


タイで観音菩薩とはどういった存在なのかをタイ人たずねたことがあるのだが、大乗仏教由来のご利益がある神様の一尊として認識されているというから、とても興味深い(関連記事:『タイの観音さま』)。



ただし、いくらご利益があるといっても、それは世俗の社会でのことだ。


比丘や沙彌といった出家者が、こうした神々を拝することはない。


あくまでも信仰の対象、尊崇の対象はブッダのみだ。


寺院内や境内に神様が祀られているとはいっても、礼拝することはもちろん、出家者がその管理や祭祀に携わることはない。



このように仏教寺院であっても、神様が祀られていたりすることが珍しくないのであるが、神様が祀られていない伝統を重んじつつ戒律を遵守して瞑想を実践する生活が中心である森の僧院や瞑想実践を中心とする寺院よりも、むしろそうしたあり方の寺院のほうが圧倒的に多数を占めている。


そのため、一般的な視点から眺めてみると、タイの仏教徒たちはみなインド由来の神々やタイ在来の神々を信仰しているということになるのだが、その理解が全てかといえばそうではない。



タイでは、“在家の信仰”と“出家の信仰”があると言えるだろう。


在家の仏教徒は、五戒を守ってブッダ・ダンマ・サンガの三宝を拠り所とする。


あわせて、いろいろな神様も一緒に信仰しているのである。


もちろん、信仰しなくてもよいし、個人の自由であるが。


どんな神様を信仰しようとも、誰かに何かを言われることはなく、全く問題はないのだ。



しかし、一方で出家者は、明確に在家の生活とは異なるがゆえに『出家』なのであるが、ひとたび出家したのであれば、依るべきは『三宝』のみであり、ブッダ・ダンマ・サンガを拠り所として生きる者とならねばならないのである。



同じ仏教徒であっても、その立場によって信仰のあり方(生き方の在りよう)が異なるという点は、寺院と寺院へとやってくる人たちを表面的に眺めているだけではわからないことだろう。


私がタイの神様について深く関わる機会がなかったのは、上座仏教の伝統を重んじつつ戒律を遵守して瞑想を実践して生活をする森の僧院で過ごしていたからかもしれない。


これが在家での生活で、町や村、あるいは都会で生活を送っていたのであれば、事情はまた変わっていたのかもしれないと思う。



タイの神様たちは、仏教や出家生活とは何ら関係がないとは言っても、寺院を守る存在であると信じられていたり、仏法を守る存在であると信じられていたりするというその“位置”は日本とも共通するところがあり、全く無関係かと言えばそうでもないと言えるだろう。


それぞれの尊格も、多くはタイ独自のものではなくて(タイの風土に合わせた変容があったとしても)、おおむね仏教全体のものとして共通している。



一般の在家者の神々に対する信仰は、いわゆる現世利益であり、非常に現実的で生活感あふれるご利益信仰である点も見逃せない。


こうしたところに、並々ならぬ親しみを感じるのである。


素朴な神々への信仰が土台にあって、その上に高度な教理と実践体系を持った上座仏教からタイの仏教は成り立っているということになるだろうか。



そうしたことをすべて含めて“タイの仏教”なのである。



インド由来の神々は、いつどのようにして、タイへと渡ってきたのであろうか。


タイの呪術師や祈祷師は、カンボジアへその学びを深めるために留学するらしいことからも、私の想像の範囲ではあるが、上座仏教以前に伝わった仏教である大乗仏教とともにタイへと伝来したものではないだろうかと思う。


タイがまだ大乗仏教だった時代から上座仏教への信仰へと移ったあとも、一般社会で生活する人々のあいだで脈々と現代まで継承され続けてきたのではないかと思っているのだが、果たしてどうであろうか・・・?



その興味は尽きない。



お詳しい方やご専門の方がいらしたら、ぜひともご教示願いたいと思う。






たーれっく氏


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【関連記事】


『タイの神様とお坊さん』

(2010年05月17日掲載)


『タイの観音さま』

(2020年05月09日掲載)


『タイの毘沙門天信仰』

 (2022年08月09日掲載)




(『『タイの神様図鑑』が面白い!~在家の信仰と出家の信仰~』)





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2025/02/19

戒は単なる禁止事項ではない

戒は、日本人にとって非常に馴染みが薄いもののひとつだ。


仏教徒や仏教学者であっても、戒を守りながら生活をしているかといえば、そうした者はごく希少だろう。


上座仏教(テーラワーダ仏教)は、別名『戒律仏教』などと呼ばれることもあるが、いまだに禁止事項ばかりの窮屈で形式的なことばかりの仏教であると理解されることがあるが、それは大きな誤解である。



私は、タイで瞑想の師から、戒とは単に禁止事項であるのではなく、戒そのものが瞑想となっていくのだと指導を受けるととに親しく教え諭された。


戒を保っていこうと心掛けていくことで、自身の行為・行動をよく知り、観察していくことになるのだと。



ところが、日本では戒を“完璧に守る”ことのみに関心が向けられる傾向が非常に強く、完璧に守れない戒は意味がないと理解されることが多いため、全く話が噛み合わない。


日本で戒の話をすると必ずと言ってよいほど反発されるのだが、それはこうした日本の戒に対する理解を反映しているのではないだろうか。



絶対に守り切れない戒など意味があるのか?


完璧に守り切れないのだから、はじめから守らなくても、なんら問題などないではないか?



必ずこのように反発されるのである。



・・・今でこそ、このように言っている私であるが、瞑想の師から教えを受けるまでは、戒がそのまま瞑想の実践になるとは全く思いもしなかった。


戒を守れば生活が調うということは、個人的にはすでに体験として経験していることであるし、誰にでも容易に理解できる範囲ではないかと思う。


そもそも生活を調えなければ瞑想のための環境というか条件が揃わないので、瞑想実践者にとって戒の意義は比較的容易に理解できるものであると思うが、戒がそのまま瞑想であり気づきの実践だというのだから驚くほかない。


しかし、それは納得以外の何者でもない、まさにその通りだと深く腹落ちしたのであった。


戒にこれほどまで深い意義と瞑想との密接な繋がりを身をもって学び、実践できたことは、ひとえに師の教えと指導のおかげであると感じている。



それにしても、実に戒はうまくできていると思う。











完璧に守れない戒に意味はない、完璧に守れない戒は守らなくてもよい・・・そのような考え方は大きな誤りだ。


戒を完全に守ることができなかったとしても、たとえほんの少しでも戒を破ってしまう回数を減らそうと努力をするべきであるし、破戒の度合いを少しでも軽くしていこうと努力をすべきである。


またそうした努力は誰にでもできる実践だ。


完璧に守り切ることができなかったとしても、そうした決して大きくはないかもしれない努力や心掛け、意識づけを行っていくからこそ、心の境涯が着実に磨かれていくのではないか。



また、持戒のあり方もさまざまな実践の形があり、在家者であっても実践可能な形がある。


例えば、タイの修行寺や瞑想センターなどでよく見られる形式であるが、日数を決めて堅固に守るようにしたり、その日だけ堅固に守る(例えば、ワン・プラの日だけ堅固に守るという形はタイでは一般的によく実践されている)といった形であっても、立派な持戒の実践になるのである。



戒とは、単に禁止事項であるのではない。


戒そのものが瞑想の実践なのであり、日々の生活のあり方そのものなのである。


実生活全般に通底しているべきものであり、日々の営みのなかを貫いている生活規範なのである。



戒を守ろうと心掛けていくことで、自身の行為や話す言葉、心の動きに注意するようになるだろう。


自身の行為に注意するようになるということは、自身の状況や状態へと関心を向けて、気づいてよく知っていくこと、観察・洞察していくことへとつながっていくのである。



なぜ『持戒』が大切で、なぜ『持戒』が悟りへと向かわせていく“力”になっていくのかといえば、こうした善き習慣づけとなるものだからだ。


それだけでなく、いつも心と身体の動きへと注意を向かわせる実践となるものであるからだ。


同時に、常に欲望や怒りの感情といったものへと心を向かわせないための実践であるからだ。



戒は、単なる禁止事項であるのではない。


法の実践そのものであり、瞑想の実践そのものである。



いま一度、師からの教えをよくよく噛みしめ、深く味わいたいと思う。




(『戒は単なる禁止事項ではない』)






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2024/10/29

海外で長く出家生活を送るには・・・?

海外において仏教の僧侶としてその生涯を送ることは可能なのであろうか?


海外の仏教の僧侶といってもとても幅が広い。


どこの国のどの種の仏教で出家をしたのかによっても異なる。



ここでは、タイの比丘としてその生涯を出家者として過ごすことを想定して触れてみたいと思う。



近年、海外で出家を志す真摯な求道者の姿が目立つ。


日本の求道の環境や仏教の修学とその実践の環境については、一言物申したい気持ちはあるのだが、ここでは触れないことにする。


溢れんばかりの仏法への思いを海外へと向けるのは、海外へ道を求め、修学の場を求めた私としては、同じ志を持った者同士大変頼もしく、嬉しいと思う。


しかし、同時に、大変残念にも思うところが、非常に背反する複雑な感情だ。


なぜならば、言葉も通じない、生活環境も全く違う海外へと飛び込むほど真摯な求道者が日本からいなくなってしまうというのは、とても寂しいことではないだろうか。


率直に言って、日本仏教にとって大きな損失だ。


同時に、日本という仏教国と言われている国に、真摯な問いに答えてくれる場がないというのは、なんとも悲しく、寂しいと言わざるを得ない。



真摯な求道者が海外の仏教へと目を向けるのは、当然と言えば当然だと思う。


出家・在家を問わず、教えに生きるとはどういったことなのかを、すぐ目の前に見せつけられるであろうし、その実践と信仰の深さに思いきり心を打たれるであろうからだ。


一度でいいから、海外の生きた仏教の姿を実際に見て欲しいと思う。



そこには、仏教を学ぼうとする者たちを積極的に応援し、支援しようとする土壌がある。


それももちろん仏教の実践であり、生き方であり、信仰の現われなのである。



さて、海外で長期間居住するにあたり、真っ先に頭をよぎるのがビザの問題だろう。


実際に今までタイで出家を志す人たちからたくさんのご質問をお受けしてきたが、真っ先にたずねられるのがこのビザの問題について教えて欲しいというものだ。


準備の進め方にはいろいろあるのだが、ビザについては安易に回答できるものではなく、その時の状況、特に政情によって大きく左右される。


何よりも最新の情報を得るべきであるから、まずは相応の機関に確認をしていただきたいと思う。



余談であるが、タイでは、タイ人比丘を含めて“比丘として”最期の時を迎えるのは、なかなか難しいことだと聞いたことがある。


住職やそれに準じるクラスであれば可能なのかもしれないが、一般の比丘ともなれば、体調を崩しがちになったり、病気がちになって来た時点で還俗をすすめられるらしい(あるいは還俗を選ぶらしい)。


私の出家中に一度だけ近隣寺院の比丘のお悔やみに参列したことがあるのだが、確かにその寺院の住職であった。


比丘として最期を迎えることはなかなか難しいというのは、私の友人が語っていたことであるがそうした事情はやはりあるのかもしれない。



それでは、日本人比丘としてはそれは可能なのであろうか?


一人の出家者としてその生涯を寺院で終えることはできるだろうか?



それは、タイに永住するのか、あるいは日本に永住するのかによっても違うだろう。


最後を迎えた時点で、その比丘がどういった位置の比丘なのかによっても違うのではないだろうか。


思うに、私の友人の話から、やはり住職クラスの位置にいる者でないと難しいのではないだろうか・・・このあたりの事情は、タイの寺院の事情に詳しい方からの情報を待ちたいと思う。



さて、話を元に戻すことにする。


ビザの問題は、外国人出家者にとっては、非常に大きな問題である。


ビザは更新しないといけないし、その更新のための費用も必要だ。


比丘は経済活動を行わない。


どこかから必要経費を調達しないといけない。



(ビザの費用だけではなく、通常は生活上の若干の諸経費は自己負担である。

余程豊かな経済力を持った大きな寺院でない限り、100%生活費を賄ってもらうことはできないのが通例である。

ある程度の(最低限度の)必要経費を支援してくれる存在が必要となる。)



また、タイについては、一定期間を経過するとビザがおりないという問題がある。


ビザの問題は、その時々で変わるためなんとも言えないのだが、明確に言えることは、事前に考えられる諸々の問題を想定しつつタイへ入国し、起こるであろう課題を念頭におきながら出家生活を送るほうがよいということだ。


想定外のことまで想定しろとは言えないが、想定できることは想定しておいた方がよいだろう。



それでは、いくつかの課題と私なりの見解、そしてその対策を記しておきたいと思う。











まず最も重要なのは、出家をする寺院を選ぶことだと思う。


何よりも、外国人出家者の扱いに慣れた寺院で出家をするのが最も安全だろう。


タイの寺院といっても実にさまざまで、外国人比丘の扱い、特に書類上の扱いに不慣れな寺院が圧倒的に多い。


これは、当たり前の話だ。


ごく短期間の出家であるならば、ビザも必要ないし書類も必要ないので全く問題ないが、ビザや書類の問題が関わってくると、必ず問題が起こる。


対応方法としては、外国人出家者に扱いに慣れた寺院で出家するか、出家後であれば移籍するという方法がある。


しかし、それは双方の寺院の承諾のうえに成り立つものであるから、場合によっては叶わないこともある(受け入れてもらえるのであれば問題はない。)。


やはり、このような問題は想定できる範囲で事前に対策しておくほうがよいだろう。



晴れてビザの更新も滞りなく進み、年単位の出家生活が叶ったとしよう。


次に想定されるのが、やがてはビザの更新ができなくなる時が来るということだ。


タイの場合は、その期限は、5年とも10年とも言われている。



この問題については、タイ以外の上座仏教国とのつながりを構築しておくことがひとつの対策となり得るのではないかと思う。


タイのサンガで出家生活を継続できないのであれば、他の上座仏教国の寺院へと移籍して出家生活を継続するというものだ。


事実、そういった日本人比丘は実際にいる。



上座仏教のいいところは、宗派があるといっても、日本のような宗派ではなく、どこの国へ行っても実質的に“ひとつの仏教”であるという点だ。


同じく比丘であれば、どの国へ行っても比丘であり、仏教の僧侶である。



ただし、これについても双方の寺院の承諾が前提となるため、いかにしてつながりを構築しておくかが鍵になるかと思う。


当然のことではあるが、私は、トラブルになるようなやり方や強引な手法、あるいは自分勝手なやり方は絶対におすすめしないし、絶対に止めたい。


よく判断されたいと思う。



もうひとつ、私が大切だと考えていることは、日本とのつながりを構築しておくだ。


すなわち、日本人の信者(支援者)を作っていくことである。



出家後数年間は、自身の修行に専念すべきだろう。


その後、一人前の比丘となり、長老と呼ばれる出家年数になる頃には、比丘としての立ち居振る舞いも身についているであろうから、自身を支援してくれる人たちの存在を視野に入れていくと良いのではないかと思う。


国際的な寺院のグループに属しているのなら、そうしたことは必要ないけれども、個人で出家した場合は所属の寺院と相談しつつ、並行してそうした視野を持っておいた方がよいというのが私の見解だ。



元来、比丘は、戒律による制約があるため、自戒堅固であればあるほど、ひとりではなにも行動することができない存在だ。


寺院(=サンガ)のなかで生活するというのが原則だからだ。


そのため、どこへ行くにしても(タイ国内、海外ともに)、必ず比丘の周囲には数名の支援者をともに連れていくというのが通例だ。


しかし、それはタイでの話であり、タイ国サンガの中で生活していることが前提の話だ。


日本には、そうした寺院もサンガもない。


ゆえに出家者や比丘への理解も一切ない。



ビザの問題やその他なんらかの問題により、比丘として日本へ帰国するとなった時は、生活が立ちいかなくなることは明白だ。


そうした事態を想定すると、日本にも支援者が存在している環境であることが望ましい。



おそらく、たとえ日本人であったとしてもタイで出家をした比丘であれば、日本在住のタイ人が何らかの支援をしてくれることと思う。


だから(これも“おそらく”ではあるが)生活に困ることはないと思う。


真摯な比丘を生活に困らせるようなことは、タイ人ならば絶対にしないことだからだ。


しかし、長い目でみれば、日本人の支援者もやはりいた方がいいということは、いうまでもないことだと思う。












真摯に出家生活を送り、真摯に仏法に従った生活を送り、真摯に仏法を伝えていこうとする姿勢さえあれば、必ず支援してくれる人が現れる。


また、必ず仏法を学びたいと慕ってくれる人が現れる。


何も人目を惹くような奇抜な活動であるとか、目立った派手なことなど必要ないし、また人はそうしたことを求めているわけでもない。


真摯に仏法を聴きたい、仏法を実践したい、瞑想したいという、純粋に仏法を求める人たちばかりで、そうした人たちはたくさんいるからだ。



ただし、比丘たるもの、贅沢な暮らしや必要以上のものを望むのであれば、この限りではないというのは、これもまたいうまでもないことだろう。


生活に困らないとは、衣食住に困らないだけの必要最低限度の必要物資のことを言っている。


それは、その当人もタイの出家生活において十分に学んでいるはずであり、身につけているはずであろうから、敢えてここで触れるまでもないと思うのでこれ以上は言及しないことにする。



出家者らしくしていれば、必ず支援者は現れるはずだ。



それでも、立ちいかなくなることもあるかもしれないが・・・



それは、残念ながらひとえに本人の『徳』ということになるのだろうと思う。


そういった縁の上にあったということであろうし、出家者を続けていけるだけの『徳』がなかったということになるのだと思う。



『徳』などというと、単なる迷信であって、妄信だといわれるかもしれない。


なんの根拠もない話だろうと言われるかもしれないが、私はそうした目には見えない因果の繋がりは厳然としてあると思っている。


それを出家と還俗という体験を通して、体感として存在を確信したということを申し上げておきたい。


だからこそ、私は、たったの3年の出家生活を送っただけで還俗し、日本へと帰国しなければならない状況となってしまったわけである。


ひとえに、私に『徳』がなかっただけであるし、その器ではなかったというだけのことだ。



私には、『徳』がなかったの一言である。



最後に、大切なことを書きとどめておきたいと思う。


もしかすると、今日のこの記事は、あなたには全く関係のないことなのかもしれない。


しかし、こうした諸問題をあなた自身の生活や人生に重ね合わせて考えていただきたいということをお伝えしたい。


出家者であろうとなかろうと、タイであろうとなかろうと、どこでどのような立場で生活していようと、どこで何をしていようと、因果の道理は変わるものではないからだ。


どこまでいっても不安定で不確かな世界を生きているという事実は、出家も在家も変わりがないことだからだ。



縁ということを考えてみても同じではないだろうか。


私の“今”というものは、ひとえに縁によってこそ存在している。


縁と言うものは、ある特定の事象のみを取り出して言っているのではないし、そもそも言えるものではない。


すべては繋がっており、それはまるで“網の目”に例えることができるのではないか。



“網の目”は、たくさんある目からただひとつの目だけを取り出すことは不可能だ。


隣の目と交差してできており、ひとつひとつがつながり合って成り立っている。


私たちの人生もそれと全く同じである。



縁がなかったのであるし、そのような成り行きとなる縁の上にあったという話に過ぎない。



この事実を真正面から受け止めていくことができるかどうかが、この先の生き方へとつながるのではないか


私の場合で言えば、たとえ還俗したとしても、そうした縁の上に存在しているのだから、出家者ではなくなったのかもしれないが、仏教を自身の生き方として生きるあり方そのものをやめてしまうわけではないし、決してそのようなことにもならない。



そこを学び取っていくことができるかどうかだと思う。



たとえ出家者であり続けることができたとしても、そこを学び取っていくことができないのであれば、真の出家であるとは言えないし、その意義はどこにあるのだろうか・・・そのように言わざるを得ない。



『出家』というものをどのようにとらえるのかで、その意義や学びが大きく変わってくる。




(『海外で長く出家生活を送るには・・・?』)






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