タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2024/10/29

海外で長く出家生活を送るには・・・?

海外において仏教の僧侶としてその生涯を送ることは可能なのであろうか?


海外の仏教の僧侶といってもとても幅が広い。


どこの国のどの種の仏教で出家をしたのかによっても異なる。



ここでは、タイの比丘としてその生涯を出家者として過ごすことを想定して触れてみたいと思う。



近年、海外で出家を志す真摯な求道者の姿が目立つ。


日本の求道の環境や仏教の修学とその実践の環境については、一言物申したい気持ちはあるのだが、ここでは触れないことにする。


溢れんばかりの仏法への思いを海外へと向けるのは、海外へ道を求め、修学の場を求めた私としては、同じ志を持った者同士大変頼もしく、嬉しいと思う。


しかし、同時に、大変残念にも思うところが、非常に背反する複雑な感情だ。


なぜならば、言葉も通じない、生活環境も全く違う海外へと飛び込むほど真摯な求道者が日本からいなくなってしまうというのは、とても寂しいことではないだろうか。


率直に言って、日本仏教にとって大きな損失だ。


同時に、日本という仏教国と言われている国に、真摯な問いに答えてくれる場がないというのは、なんとも悲しく、寂しいと言わざるを得ない。



真摯な求道者が海外の仏教へと目を向けるのは、当然と言えば当然だと思う。


出家・在家を問わず、教えに生きるとはどういったことなのかを、すぐ目の前に見せつけられるであろうし、その実践と信仰の深さに思いきり心を打たれるであろうからだ。


一度でいいから、海外の生きた仏教の姿を実際に見て欲しいと思う。



そこには、仏教を学ぼうとする者たちを積極的に応援し、支援しようとする土壌がある。


それももちろん仏教の実践であり、生き方であり、信仰の現われなのである。



さて、海外で長期間居住するにあたり、真っ先に頭をよぎるのがビザの問題だろう。


実際に今までタイで出家を志す人たちからたくさんのご質問をお受けしてきたが、真っ先にたずねられるのがこのビザの問題について教えて欲しいというものだ。


準備の進め方にはいろいろあるのだが、ビザについては安易に回答できるものではなく、その時の状況、特に政情によって大きく左右される。


何よりも最新の情報を得るべきであるから、まずは相応の機関に確認をしていただきたいと思う。



余談であるが、タイでは、タイ人比丘を含めて“比丘として”最期の時を迎えるのは、なかなか難しいことだと聞いたことがある。


住職やそれに準じるクラスであれば可能なのかもしれないが、一般の比丘ともなれば、体調を崩しがちになったり、病気がちになって来た時点で還俗をすすめられるらしい(あるいは還俗を選ぶらしい)。


私の出家中に一度だけ近隣寺院の比丘のお悔やみに参列したことがあるのだが、確かにその寺院の住職であった。


比丘として最期を迎えることはなかなか難しいというのは、私の友人が語っていたことであるがそうした事情はやはりあるのかもしれない。



それでは、日本人比丘としてはそれは可能なのであろうか?


一人の出家者としてその生涯を寺院で終えることはできるだろうか?



それは、タイに永住するのか、あるいは日本に永住するのかによっても違うだろう。


最後を迎えた時点で、その比丘がどういった位置の比丘なのかによっても違うのではないだろうか。


思うに、私の友人の話から、やはり住職クラスの位置にいる者でないと難しいのではないだろうか・・・このあたりの事情は、タイの寺院の事情に詳しい方からの情報を待ちたいと思う。



さて、話を元に戻すことにする。


ビザの問題は、外国人出家者にとっては、非常に大きな問題である。


ビザは更新しないといけないし、その更新のための費用も必要だ。


比丘は経済活動を行わない。


どこかから必要経費を調達しないといけない。



(ビザの費用だけではなく、通常は生活上の若干の諸経費は自己負担である。

余程豊かな経済力を持った大きな寺院でない限り、100%生活費を賄ってもらうことはできないのが通例である。

ある程度の(最低限度の)必要経費を支援してくれる存在が必要となる。)



また、タイについては、一定期間を経過するとビザがおりないという問題がある。


ビザの問題は、その時々で変わるためなんとも言えないのだが、明確に言えることは、事前に考えられる諸々の問題を想定しつつタイへ入国し、起こるであろう課題を念頭におきながら出家生活を送るほうがよいということだ。


想定外のことまで想定しろとは言えないが、想定できることは想定しておいた方がよいだろう。



それでは、いくつかの課題と私なりの見解、そしてその対策を記しておきたいと思う。











まず最も重要なのは、出家をする寺院を選ぶことだと思う。


何よりも、外国人出家者の扱いに慣れた寺院で出家をするのが最も安全だろう。


タイの寺院といっても実にさまざまで、外国人比丘の扱い、特に書類上の扱いに不慣れな寺院が圧倒的に多い。


これは、当たり前の話だ。


ごく短期間の出家であるならば、ビザも必要ないし書類も必要ないので全く問題ないが、ビザや書類の問題が関わってくると、必ず問題が起こる。


対応方法としては、外国人出家者に扱いに慣れた寺院で出家するか、出家後であれば移籍するという方法がある。


しかし、それは双方の寺院の承諾のうえに成り立つものであるから、場合によっては叶わないこともある(受け入れてもらえるのであれば問題はない。)。


やはり、このような問題は想定できる範囲で事前に対策しておくほうがよいだろう。



晴れてビザの更新も滞りなく進み、年単位の出家生活が叶ったとしよう。


次に想定されるのが、やがてはビザの更新ができなくなる時が来るということだ。


タイの場合は、その期限は、5年とも10年とも言われている。



この問題については、タイ以外の上座仏教国とのつながりを構築しておくことがひとつの対策となり得るのではないかと思う。


タイのサンガで出家生活を継続できないのであれば、他の上座仏教国の寺院へと移籍して出家生活を継続するというものだ。


事実、そういった日本人比丘は実際にいる。



上座仏教のいいところは、宗派があるといっても、日本のような宗派ではなく、どこの国へ行っても実質的に“ひとつの仏教”であるという点だ。


同じく比丘であれば、どの国へ行っても比丘であり、仏教の僧侶である。



ただし、これについても双方の寺院の承諾が前提となるため、いかにしてつながりを構築しておくかが鍵になるかと思う。


当然のことではあるが、私は、トラブルになるようなやり方や強引な手法、あるいは自分勝手なやり方は絶対におすすめしないし、絶対に止めたい。


よく判断されたいと思う。



もうひとつ、私が大切だと考えていることは、日本とのつながりを構築しておくだ。


すなわち、日本人の信者(支援者)を作っていくことである。



出家後数年間は、自身の修行に専念すべきだろう。


その後、一人前の比丘となり、長老と呼ばれる出家年数になる頃には、比丘としての立ち居振る舞いも身についているであろうから、自身を支援してくれる人たちの存在を視野に入れていくと良いのではないかと思う。


国際的な寺院のグループに属しているのなら、そうしたことは必要ないけれども、個人で出家した場合は所属の寺院と相談しつつ、並行してそうした視野を持っておいた方がよいというのが私の見解だ。



元来、比丘は、戒律による制約があるため、自戒堅固であればあるほど、ひとりではなにも行動することができない存在だ。


寺院(=サンガ)のなかで生活するというのが原則だからだ。


そのため、どこへ行くにしても(タイ国内、海外ともに)、必ず比丘の周囲には数名の支援者をともに連れていくというのが通例だ。


しかし、それはタイでの話であり、タイ国サンガの中で生活していることが前提の話だ。


日本には、そうした寺院もサンガもない。


ゆえに出家者や比丘への理解も一切ない。



ビザの問題やその他なんらかの問題により、比丘として日本へ帰国するとなった時は、生活が立ちいかなくなることは明白だ。


そうした事態を想定すると、日本にも支援者が存在している環境であることが望ましい。



おそらく、たとえ日本人であったとしてもタイで出家をした比丘であれば、日本在住のタイ人が何らかの支援をしてくれることと思う。


だから(これも“おそらく”ではあるが)生活に困ることはないと思う。


真摯な比丘を生活に困らせるようなことは、タイ人ならば絶対にしないことだからだ。


しかし、長い目でみれば、日本人の支援者もやはりいた方がいいということは、いうまでもないことだと思う。












真摯に出家生活を送り、真摯に仏法に従った生活を送り、真摯に仏法を伝えていこうとする姿勢さえあれば、必ず支援してくれる人が現れる。


また、必ず仏法を学びたいと慕ってくれる人が現れる。


何も人目を惹くような奇抜な活動であるとか、目立った派手なことなど必要ないし、また人はそうしたことを求めているわけでもない。


真摯に仏法を聴きたい、仏法を実践したい、瞑想したいという、純粋に仏法を求める人たちばかりで、そうした人たちはたくさんいるからだ。



ただし、比丘たるもの、贅沢な暮らしや必要以上のものを望むのであれば、この限りではないというのは、これもまたいうまでもないことだろう。


生活に困らないとは、衣食住に困らないだけの必要最低限度の必要物資のことを言っている。


それは、その当人もタイの出家生活において十分に学んでいるはずであり、身につけているはずであろうから、敢えてここで触れるまでもないと思うのでこれ以上は言及しないことにする。



出家者らしくしていれば、必ず支援者は現れるはずだ。



それでも、立ちいかなくなることもあるかもしれないが・・・



それは、残念ながらひとえに本人の『徳』ということになるのだろうと思う。


そういった縁の上にあったということであろうし、出家者を続けていけるだけの『徳』がなかったということになるのだと思う。



『徳』などというと、単なる迷信であって、妄信だといわれるかもしれない。


なんの根拠もない話だろうと言われるかもしれないが、私はそうした目には見えない因果の繋がりは厳然としてあると思っている。


それを出家と還俗という体験を通して、体感として存在を確信したということを申し上げておきたい。


だからこそ、私は、たったの3年の出家生活を送っただけで還俗し、日本へと帰国しなければならない状況となってしまったわけである。


ひとえに、私に『徳』がなかっただけであるし、その器ではなかったというだけのことだ。



私には、『徳』がなかったの一言である。



最後に、大切なことを書きとどめておきたいと思う。


もしかすると、今日のこの記事は、あなたには全く関係のないことなのかもしれない。


しかし、こうした諸問題をあなた自身の生活や人生に重ね合わせて考えていただきたいということをお伝えしたい。


出家者であろうとなかろうと、タイであろうとなかろうと、どこでどのような立場で生活していようと、どこで何をしていようと、因果の道理は変わるものではないからだ。


どこまでいっても不安定で不確かな世界を生きているという事実は、出家も在家も変わりがないことだからだ。



縁ということを考えてみても同じではないだろうか。


私の“今”というものは、ひとえに縁によってこそ存在している。


縁と言うものは、ある特定の事象のみを取り出して言っているのではないし、そもそも言えるものではない。


すべては繋がっており、それはまるで“網の目”に例えることができるのではないか。



“網の目”は、たくさんある目からただひとつの目だけを取り出すことは不可能だ。


隣の目と交差してできており、ひとつひとつがつながり合って成り立っている。


私たちの人生もそれと全く同じである。



縁がなかったのであるし、そのような成り行きとなる縁の上にあったという話に過ぎない。



この事実を真正面から受け止めていくことができるかどうかが、この先の生き方へとつながるのではないか


私の場合で言えば、たとえ還俗したとしても、そうした縁の上に存在しているのだから、出家者ではなくなったのかもしれないが、仏教を自身の生き方として生きるあり方そのものをやめてしまうわけではないし、決してそのようなことにもならない。



そこを学び取っていくことができるかどうかだと思う。



たとえ出家者であり続けることができたとしても、そこを学び取っていくことができないのであれば、真の出家であるとは言えないし、その意義はどこにあるのだろうか・・・そのように言わざるを得ない。



『出家』というものをどのようにとらえるのかで、その意義や学びが大きく変わってくる。




(『海外で長く出家生活を送るには・・・?』)






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2024/10/19

“最善”とはどうすることなのか?

この記事は、以前に掲載した記事を再度編集し直したものである。


今一度、私の振り返りと自戒の念を込めて掲載したいと思う。



仏教の実践というと、特別な何かをやらないといけない、あるいは大変なことや難しいことをやらなければならないと思いがちではないだろうか。


しかし、そうではない。


仏教の真髄とは、私の表現になるのだが・・・特別なことではないし、ごく当たり前のことでごく普通のことであるが、それだからこそ難しい・・・ということだと思う。


それは、やはりダンマパダの中にもある有名な『七仏通誡偈』に帰結するのではないだろうか。


日本でもよく知られているこの偈文は、タイの仏教においても重視されている。



諸悪莫作(すべての悪を犯さないこと

衆善奉行(多くの善を実行すること

自浄其意(自らの心を浄めること

是諸仏教(これが諸仏の教えである



真摯に仏法を学ばれているあなたであれば、一度はどこかで聞かれたことのある偈文だと思う。


『七仏通誡偈』は、仏教の要諦であるとも、仏教の真髄であるとも言われているものであるが、実は、私が学生の頃にはまったく理解ができなかった偈文である。



どこが仏教の要諦であって、真髄なんだ!さっぱりわからないではないか!



このように思っていた。


特別な何かをやらないといけない、あるいは大変なことや難しいことをやらなければならない、それが仏教の実践であると思っていたのだ。



さて、今、振り返ってみるとどうだろうか。



なにも満足にやり遂げることができない愚かな私。


そんな私にできることとは一体何があるのであろうか・・・



それは、私にとって『最善』と思われることをただひたすら実践し続けていくことしかないという結論に至った。


悪いことを行わず、善いことを行い、心を浄くしていくという生き方だ。


ごく簡単なことであるが、どれだけ難しいだろうか。



それでは、なにが『最善』なのか?ということが問題になって来るかと思うのだが、そこは盲目的にあるいは独善的に最善といっているわけではなく、常に仏教の学び深め、また振り返りつつ研鑽することを前提とすることを付け加えておきたいと思う。












私は、タイのお寺で“瞑想”を学び、また、日本へ帰国してからは、随分と派手に“迷走”してきた。


大変未熟な、どうしようもない奴だとお感じのことかと思う。


そんな未熟者の私が、たったひとつだけ学んだ、とても大切なことがある。



それは、私にとって、『一番善いと思ったことをやる』ということだ。



もしかすると、もっと善いことがあるかもしれないし、振り返ってみれば、やはり最善ではなかったではないか!ということも、当然あるかもしれない。


しかし、今の私にとって“最も善い”と“思われる”ことを実践する・・・



それで良いと思うのだ



何が一番最善だったのかなど、所詮は結果論でしかないし、事前に答えが出るものではないからだ。


後々になって、振り返ってみて、善かった・悪かったと評価を与えているに過ぎない。



今の私にとって最善のこと。


今の私が一番善いと思ったこと。



これが『最善』だと“思われる”ことだ。



私は、この姿勢を貫いていけば、決して後悔することはないという確信に至った


どこからも否定できないし、これ以上の結論はないと思う。




私は、タイでお世話になった
何人もの先生方に、失礼ながら機会があるごとに何度も同じ質問をしてきた。



『私は、この先、どういう道を歩んでいくのが、私にとって最も善い道なのでしょうか?』




碩学の先生に対して、素朴で非常に人間的な質問であるが、このように質問したのだ


不思議なことにどの先生からも返って来た答えはほぼ同じであった。



どのような答えであったのだろうか・・・




『あなたが一番善いと思ったことをやりなさい。』




このような答えであった。



この答えを聞いて、あなたは、どのようにお感じになっただろうか?



当時の私は、なんて適当な答えなんだ!もう少し真面目に答えてくれてもいいではないか!と、先生に対してまた大変失礼なことを思った次第であるが、日を追うごとに、なんと味わい深い答えなのだと感服するようになっていった。


同時に、先生に対してなんと失礼なことを思ったのだろうかと、自身のことをとても恥ずかしく感じるようになった



私の責任のうえで、私自身が選択をして進んでいかなければならないのが、私のこの人生だ。


他者は、私の人生の選択のうえでは、助言や提案はできるけれども、実際に私の人生の歩みを進めていくことはできない。


実際に歩みを進めて生きていくのは、何者でもないこの『私』なのだ。



時には真っ暗闇に迷い込んでしまうことがある


またある時には、どうしようもない状況へと突き落とされてしまうこともある。


苦しくて、辛くて、もうすべてを投げ出してしまいたくなるようなこともある。


そのような時、どう判断し、どう行動していったらいいのであろうか?



先生方のこの答えは、そんな人生に対して大変明確に答えを与えてくれているではないか。



自身の生き方が問われているのだ。



実は、そうしたことを端的に『あなたが一番善いと思ったことをやりなさい。』という一言に込めて質問の回答として、私へと贈ってくださっているのだ。



瞑想の実践を踏まえれば、より現実的に受け止めていくことができる。



自身の状態や状況を観察していく。


今この瞬間、瞬間によく気づいていく。


感情の濁流から一歩離れたうえで、次にとるべき適切な行動を選択していく。



こうしたことを繰り返し実践を重ねていくのが瞑想だ。



それは、日々の実生活のなかにおいても、全く同じだということを学ばせていただいた。


それが、瞑想が実生活であり、実生活が瞑想であるということだ。




そのことが
腑に落ちた瞬間・・・




タイで
たくさんの先生方から助言していただいた大切な言葉の数々がまぶしく光り輝きはじめたのであった。


情けないことに、この時まで、大切な言葉の意味を受け取ることができなかったのだ。



全てはタイのお寺で先生方から賜った言葉である・・・




『あなたが一番善いと思ったことをやりなさい。』




・・・という一言に帰結する。


さらには、冒頭に挙げた『七仏通戒偈』に通じていくと思う。


当たり前で、ごく普通のことではあるが、いざ実践していこうとすると難しい。



ここに生き方であり、道であることの意味があるのではないか。



以来、私は、迷った時も、そうでない時も、今の私にとって一番善いと思ったことを実践するようにしている。




【関連記事】


この記事は、下記の記事を再編集したものです。


・『あなたが一番いいと思うことをやりなさい』

(2021年05月29日掲載)







【参考文献】


・ホーム・プロムオン『智慧を開発し、智慧を与える者としてー現代タイ仏教の基盤を支えるポー・オー・パユットー師の教えと姿勢に学ぶー』




・『善悪の超越』
日本テーラワーダ仏教協会




・『新纂浄土宗大辞典』
七仏通戒偈・しちぶつつうかいげ






(『“最善”とはどうすることなのか?』)





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2024/08/19

神秘体験は必要か?

瞑想の実践をしていると何らかの体験をすることがある。


いや、必ず何らかの体験をするはずだ。



変化があろうがなかろうが、それはそれで体験となるからだ。



そうではなくて、“何らかの体験”といった場合、多くの瞑想実践者は、何かしらの特別な体験、あるいは劇的な体験や変化を想起するのではないかと思う。


やはり、瞑想に取り組むからには、何らかの特別な体験を得たいと思うのが自然な感情であるし、何かを期待したいというのが我々凡夫だ。



だが、そうした変化を得ることが、ひとつの瞑想の成果というか、一里塚のように考えるのは大きな間違いである。


そうした思いは、命取りにもなりかねない重大な落とし穴だと心得ておかねばならない。



実は、私も、瞑想の師にそうした神秘体験を得てみたいと、ついつい言葉を漏らしたことがあった。


師は、『そうしたことが仏教や瞑想の目的なのではない』と、いつもおだやかな師には珍しく、大変厳しい口調ではっきりとおっしゃった。


それだけ神秘体験を得ることに重要な意味はないということであり、またなによりも誤りやすく、大変危険なことだからだろう。







瞑想を実践していて、全くこれと言った特別な体験をしないということも、もちろんある。


なんの変化もないし、なんの変容もないという体験もまた体験のひとつなのだ。



その一方で、ある特殊な体験、いわゆる神秘体験や劇的な出来事や変化を体験するのもまた体験のひとつである。


そうした体験を得るということも、またもちろんある。



結論としては、神秘体験を得ようが、得まいが、どちらでも良い。



そのようなことは、はじめから問題ではないのである。


そうしたことにとらわれてしまうと、先には進まなくなってしまうからだ。


下手をすれば、道を大きく踏み外してしまう危険性すらある。



なぜならば、私が師から厳しく指導を受けたように、神秘体験が仏教や瞑想の目的なのではなくて、かりに神秘体験を得たとしても、それはただの体験であり、ひとつの過程にしか過ぎないからである。


重要なのは、特にこれといった体験がなかったとしても、あるいは何か特別な体験を得たとしても、どのような体験をしようとも、そうした体験を通じて、何を学んで、何を見出して、どのように日々の生活へと反映させていくかだ。



そもそもは、思い込みや固執、執着することから離れることを目指していくものだ。


神秘体験を得たいと固執する。


あるいは、神秘体験を得たら得たで、また得たいと渇望したり、人と違った特別な体験を得たことにおごり高ぶる心を育ててしまうことにもなりかねない。



それでは、本末転倒も甚だしい。


どのような体験を得ようとも、単なる体験であって、それ以上でも以下でもない。







特別な体験や劇的な体験、神秘体験などあってもなくても、どちらでもよい。


あったらあったでよいし、なければないでよいのである。



そうしたことには一切こだわらず、ただ地道に、ただひたすらに実践を積み重ねていくのみだ。


どのような結果であろうとも、その結果にとらわれることなく、自らが実践すべきことをただ実践していくのみである。


それが精進するということではないか。



何の変化も得られなかった。


何も変わらない、何も変わっていないと思い込む。



よく気づき、よく観察していくことが瞑想ではないか。


何も変わらないと思っている・・・その心自体を観察していくのだ。



するとどうであろうか・・・



実は、変化しないと思っていた心もまた常に変化しているのであり、変化しないものは何もないという真実の姿が観えてくるのである。


この事実を真正面から観ていくのが瞑想だ。


冷徹なまでに観察し、洞察していくなかから真実の姿を見出し、真理を見出していくのが仏教の実践なのである。



仏教は観察と洞察の宗教であるといわれる所以がここにあるのだと思う。




【関連記事】


『瞑想・特定の現象を求めないこと』

(2012年05月20日掲載)


『瞑想・幻覚のなかへ』

(2012年06月29日掲載)




(『神秘体験は必要か?』)






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