今では、瞑想を知る人の間ではよく知られるようになった『ヴィパッサナー』という言葉。
ご存知の通り、瞑想のひとつであるわけだが、仏教の言葉であるということは、すでに常識の域だろう。
しかし、私がこの『ヴィパッサナー』という言葉を初めて知った20年前は、大学を卒業してすぐの頃であったのだが、全く知られていなかった。
ごくごく一部の瞑想実践者だけが知る特殊な専門用語であった。
これは、瞑想自体が全く注目されていなかった時代であったのだから、致し方のないことなのかもしれない。
自身の無知を告白するようであり、大変お恥ずかしいことであるが、私はこの『ヴィパッサナー』という言葉をとある瞑想指導の書籍によって知った。
しかも、初めて目にした時、もしかしたら、あやしい新興宗教なのではないかと疑いの眼差しを向けたことを覚えている。
『ヴィパッサナー』と対で語られる『サマタ』に関しても同様だ。
ぜひとも、笑っていただきたいと思う。
なぜ、新興宗教なのではないかと疑いの眼差し向けたのかといえば、不勉強ながらも一応は、大学の仏教学科で4年間仏教を学んだ身である。
そんな私が全く聞いたことのない用語であったからだ。
もちろん、仏教の端から端まで知っているわけではないし、大学で学ぶ仏教など仏教全体から言えば、ほんのわずかなごく一部分でしかないから、むしろ知らないことのほうがはるかに多い。
知っていることのほうが少なくらいだ。
しかし、そうは言っても、私が手にした瞑想指導書の説明によれば、瞑想において基礎的かつ非常に重要な用語であるというではないか。
それ程までに重要な仏教用語であるならば、聞いたことがないはずはない・・・一度くらいは耳にしたことがあるはずだろうと思ったわけである。
しかも、いくらパーリ由来だとは言っても、仏教の瞑想であるはずなのに、日本古来の仏教用語で表記されていないのはおかしい。
・・・と、まぁ、このような疑いの眼差しを向けつつも、書籍を読み進めていったのであった。
書籍を読み進めていくと、『ヴィパッサナー』とは『観』の意味で、『サマタ』とは『止』の意味であるということが書かれていた。
『止』と『観』と言われれば、いくら不勉強な私でもわかる。
仏教を学んだことのある人であれば、誰もがすぐさま思いつく書物がある。
『摩訶止観』だ。
中国天台教学の大成者である天台大師智顗の『法華文句』『法華玄義』、そして『摩訶止観』の“天台三大部”として知られる書物のひとつである。
すぐさま手元の仏教辞典を調べてみると、パーリとサンスクリットの差はあるが、きちんと記されているではないか!
日本の仏教は大乗仏教であるから、原語はパーリではなくサンスクリットだ。
パーリの『サマタ』は、サンスクリットで『奢摩他』と音写される。
同じくパーリの『ヴィパッサナー』は、サンスクリットで『毘婆舎那』と音写される。(※註1)
これを仏教辞典で確認できた時は嬉しかった。
今、振り返ってみれば、それほど大したことではないのだが。
次に気になるのは、止観とは、一体どういうことを指していて、どういった瞑想“方法”をとるのかである。
今、私が読んだ現代の上座仏教が説明する方法とは違うものなのかどうかということだ。
真っ先に思いついた『摩訶止観』は、大部の書物であるため、素人が容易に読みこなせるものではなく、また到底理解できるものではない。
そこで読んだのが『天台小止観』という書物である。
この書物は、短いながらも坐禅(止観、瞑想)の肝要を簡明に説き示めした書物であるということで、早速、書店へと走り、購入して読んだことを記憶している。
『天台小止観』は、これ以上に丁寧に解説された坐禅(止観、瞑想)の指導書はないとまで言われているもので、この書物以後にできた中国や日本における諸宗の坐禅指導書は、常に『天台小止観』が利用され、踏襲されるほど重視されてきた書物だ。
さて、問題の『止』と『観』であるが、あくまでも私がこの『天台小止観』を読んで感じた所感ではあるが、『止』と『観』の原理と原則は、現代の上座仏教が説明しているもの(※註2)と、おおむね同じではあるものの、違いも多々みられるということだ。
現代の上座仏教と『天台小止観』の『止』と『観』との細かな差異や対比はここでは触れないが、大変印象的だったのは、こういった心の状態の時には、こういったことを修するとよい、というように心の状態によって対処する方法が明確に示されていることだ。
対処方法として具体的で、非常にわかりやすい。
しかしながら、重複するが、共通する部分も多くありはするものの、現代の上座仏教における『サマタ』と『ヴィパッサナー』とは、やはりやや異なる印象であり、『止』と『観』という用語そのものは同じではあっても、その概念は決して若干とはいえない隔たりがあるという印象で、はっきりとしたことはいまいちつかめなかったことを記憶している。
日本の止観と上座仏教における『サマタ』と『ヴィパッサナー』とを細かく比較してみるのも、また面白いのかもしれない。
この記事の書くために関口真大訳の『天台小止観』の要所をざっと再読したのであるが、大変興味深いことを訳者が記述している。
関口真大訳の『天台小止観』(大東出版社)の巻頭の序文には、
『・・・静かな坐禅がすぐれていることは知っていても、人間である以上は、生きるためにさまざまな動きをしなければならない。そこで静中の止観に対して動中の止観を説いているのが後段で、歴縁対境の止観という。
(略)
いかにすればそれらが止観の修行になるか、つまりわれわれの日常生活のことごとくをそのまま仏道の修行にする方法である。』(※註3)
とある。
この止観の説明は、タイの森の修行寺における瞑想指導や生活のあり方に大変近いものだ。
近代に入ってから復興あるいは創始された瞑想法を修習する場合は、その特定の瞑想法を専修する傾向にあるが、森林僧院では、そうした修習方法はとらず、サマタとヴィパッサナーを適宜、双方ともに修しながら、日常生活のことごとくをそのまま仏道の修行としていくことを指導される。(※註4)
おそらくは、こうした姿勢は古来より大切にされ、伝えられてきた修道生活の姿勢だと言えるのではないかと思う。
もっとも、特定の瞑想法を修得したのちの修道生活は、各自に委ねられているわけであるのだから、修得した特定の瞑想法を主軸としながらも、日常生活のことごとくをそのまま仏道の修行としていく努力と研鑽、そして試行錯誤が重ねられていくことになるだろう。
要は、基礎を学んだあとは、各自の生活のなかで応用していかねばならないということだ。
それはさておき、日本へも『ヴィパッサナー』という概念と、その瞑想が伝わっていたのだということへの驚きと感動は、当時の私としては、まるでもの凄いことを発見をしたかのようで大変嬉しかった。
今でも、その時の感動は忘れられない。
『サマタ』と『ヴィパッサナー』は、紛れもなく正統な仏教の瞑想であるということが確認できたことで、躊躇することなく上座仏教の瞑想たる『ヴィパッサナー』へと邁進していくことができたのであった。
【参考文献】
〇宇井伯壽 監修 『佛教辞典』 大東出版社 1993年
〇関口真大 訳 『天台小止観』 大東出版社 平成10年3月2日 発行
※註1
〇宇井伯壽 監修 『佛教辞典』 大東出版社 1993年
・『止』は391頁、『観』は154頁にある。
※註2
〇関口真大訳 『天台小止観』 大東出版社 平成10年3月2日
・『止観の修習の仕方を説明するのに(略)止には三種ある。云々』58頁から62頁に止に関する説明の記述がある。
・『第二に、どんなふうにやるのを観を修習するというのか。云々』62頁以降に観に関する説明の記述がある。
※註3
〇関口真大訳 『天台小止観』 大東出版社 平成10年3月2日
・巻頭に『天台小止観』の概略が説明されている。引用の文言は、巻頭の序文ⅰに記されている。
※註4
すべての森林僧院がそうした方針をとっているわけではなく、森林僧院を含むタイの寺院や僧院は、実に多様であるということを注記しておく。
(『ヴィパッサナー瞑想って、あやしい新興宗教なのではないか?と思ったお話』)
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