時々・・・『この記事の人物は誰で、この寺院はどこの何という名前の寺院なのかを教えて欲しい』という問い合わせをいただくことがある。
大変申し訳がないのだが、拙ブログでは、個人名や固有の名称などは一切出さない方針としているため、せっかくのご連絡ではあるが、お伝えできないということでご納得をいただいている。
なぜなら、このような拙いブログであったとしても、それなりの影響力があり、先方様に迷惑をかけてしまう可能性があるからだ。
実際に、拙ブログの情報のおかげで、タイの寺院を訪ねることができ、求めていた瞑想の学びを深めることができたという感謝のご報告を何件もいただいている。
日本では決して知ることのできないタイの仏教の実際を伝えたい。
そのような思いがこのブログの原点であり、出発点のひとつにもなっている。
私にとっては、何にもかえがたいとても嬉しいご報告である。
だが、相手に迷惑をかけないということが前提条件だ。
さて、どうしてこのようなことを冒頭で申し上げたのかといえば、今回の話題は『個人』だからだ。
個人名は挙げない方針ではあるが、著名人や有名な寺院など、すでに世間において広く知られている人物や場所については除外している。
そのような線引きであるということは、もうお気づきのことかと思う。
今回は、大学時代に講義でお世話になった教授である佐々木教悟先生についての思い出話である。
佐々木教悟先生は、当時の南伝仏教(上座仏教・テーラワーダ仏教)研究の第一人者であり、権威のお一人でもあられた先生だ。
本などもご出版されておられて、すでに世にその名前が知られているお方であるため、具体的なお名前を記しても構わないものと思うので、そのお名前を出させていただいた。
1986年(昭和61年)8月20日の発行で、 決して新しくはないが学術書であることもあって、 プレミアがついて相当高額なようである。 |
私がいつも欠かさず読ませていただいているブログであり、同時に並々ならぬご縁をいただいている『アジアお坊さん』というブログの記事のひとつに佐々木教悟先生のお名前があった。
目にした瞬間、学生時代の講義がよみがえって来るかのようであった。
佐々木教悟先生(以下『先生』と記す)は、若かりし頃、1944年1月~1946年8月までの約2年半の間、タイで出家をされ、タイ仏教の教義・教学、歴史を深く学ばれ、その後日本における南伝仏教研究の第一人者として、今なお学問の世界にその名前を留めておられる。
タイへ渡られた時の年齢も、滞在期間も、私と似ており、大変恐縮ながら、どこか私と重ねるところがあるのだ。
しかしながら、タイの仏教に関する情報は、当然今ほど豊富ではなく、何の情報もなかったであろうし、またその時代背景から想像するに、おそらく日本もタイも、政情が大変不安定であったに違いなかったであろう状況下で、言葉の壁や環境の壁を越えて、タイで学ばれたそのご苦労とご努力はいかばかりかと思う。
それは、先生のご著書を少し読めば、どれだけ深く修学なさっておられたかは一目瞭然である。
先生のご苦労に比べれば、私の学びなど、ほんのお遊びに過ぎず、実に恥ずかしく思う。
・・・もっとも、私に先生のご苦労を語れるほどの資格などどこにもなく、はじめから比較にはならないのだが。
そもそも先生に対して大変失礼であるが、その点は、なにとぞご容赦いただきたいと思う。
母校の様子 この学舎で先生から初めて南伝仏教に触れた。 |
さて、私と上座仏教とのご縁は、振り返ってみれば、大学時代の先生の講義である。
大学の講座に『仏教教学特殊講義』という講座が開講されており、テーマは『南伝仏教の教学』というものであった(・・・と記憶しているが、この点についてはややうる覚えだ。)。
大乗仏教だけではなく、タイやミャンマーに伝わる上座仏教についても、もちろん深く学びたいと考えていた私にとっては、大変嬉しい講義であった。
その『仏教教学特殊講義』をご担当されていた教授が佐々木教悟先生であった。
先にも触れたが、先生は、当時の南伝仏教研究の第一人者で、他大学から私の母校である大学へと講義に来ておられたのだ。
そんな権威である先生の講座であるから履修しないという選択肢はない。
今思えば、さすがはタイで比丘として仏教を学んで来られたお方とあって、非常に温厚なお人柄であり、とても丁寧でわかりやすいご講義をされる先生であった。
ところが、情けない・・・
振り返ってみれば、講義内容で覚えていることといえば、大切な仏教の教義・教学よりも、先生がお話されたタイの思い出話ばかりではないか。
はっきりと覚えているのが、タイには『プラッ』と呼ばれる小仏像のお守りがあるというお話で、袋の中に入れられたいくつかの小仏像を私たち学生のひとりひとりに手渡して触れさせてくださったことだ。
これは、いうまでもなく以前に拙ブログでも紹介している『プラクルアン』のことである(タイでは、一般的には『プラッ』と呼ばれている。)。
見せていただいたのは、ちょうどこのような金属製の小仏像だ。
この小仏像は私がタイで とある高僧から直接いただいたものである。 特別な祈祷がなされた貴重なものだ。 |
タイの人たちは、このようなお守りが大好きである。
日本人にも通じるこうしたタイの人たちの感覚は、先生がタイで学ばれた当時からすでにあったということだ。
タイの人たちは、仲良くなると“友情の印”として、このようなお守りをプレゼントしてくれることがある。
私の勝手な想像ではあるが、先生もきっと、タイの人たちとのあたたかな交流があったに違いない。
袋の中から出してくださった、5つか、6つくらいあったであろうか、その小仏像たちが物語っている。
それだけではない。
先生は、瞑想についてもお話されていた。
『タイには、大変ユニークなタイ独特の瞑想法がある・・・』といったような内容のことを学生たちに紹介されていたことを覚えている。
実は、学生だった当時、私は瞑想には何の興味も関心もなかったのであるが、この話だけは、なぜか鮮明に覚えているのだからなんとも不思議なものだ。
“大変ユニークな瞑想法”というのは、ワット・パクナム寺院の瞑想法のことであり、プラ・モンコン・テープムニー師(ルアンポー・ソッド師)が指導された瞑想法のことを指して言っているのであろう。
プラ・モンコン・テープムニー師(ルアンポー・ソッド師/1844年~1959年)は、1959年にご遷化なされておられることから、おそらく先生はルアンポー・ソッド師を訪ねておられるのではないだろうか。
ワット・パクナム寺院の瞑想法は、当時のタイにおいて大変な広がりを見せた瞑想法である。
その瞑想法を提唱された非常に著名な瞑想指導者であり、また大変高名な高僧でもある。
しかも、バンコク市内にある寺院におられた瞑想指導者であることから、バンコクで生活をしていたのであれば、なおのこと知らないはずはないと思う・・・もっとも、私の勝手な憶測だが。
余談ではあるが、私の経験から言えば、日本人であれば、外国人であるがゆえに、こちらからお願いをしなくても、仲良くなったタイ人の誰かが(半ば強引に?)連れて行ってくれるのではないだろうかと思う・・・あくまでも、私の経験上の話である。
ワット・パクナム寺院発行の ルアンポー・ソッド師の伝記(日本語) ワット・パクナム寺院でいただいたものである。 『チャオクン・モンコン・テープムニーの生涯とその教え』は、 藤吉慈海著『インド・タイの仏教』 大東出版社 1991年 に収録されている。 |
ワット・タンマカーイ寺院発行の ルアンポー・ソッド師の伝記(日本語) パクナム寺院・タンマカーイ寺院ともに どちらの寺院が発行している伝記も 当時のタイ仏教の状況をはじめ、 バンコク市内の様子であったり、 タイの人たちの様子が 鮮明に記されていて大変参考になる。 |
そして、もうひとつ、最も強く私の印象に残っているのが、先生が比丘となられた時の記念写真だ。
これは、本当に私の記憶に鮮明に焼き付いている。
当然カラーではない、モノクロの写真ではあったが、おそらくは写真館で撮影されたであろう、大変立派な非常に改まった写真である。
そんな大切な写真を私たち一介の学生に披露してくださったのだ。
抱えるようにバーツ(托鉢の鉢)を持ち、ひとり凛々しく立っているその姿は、忘れることができない。
まるでブッダの再来か、あるいは古い経典に登場するブッダの弟子たる比丘の再来であるかのような姿である。
それは、学生だった私には強烈に脳裏に焼き付く、日本の僧衣ではない、南伝仏教の僧衣姿であった。
糞掃衣であり、福田衣であり、黄衣の袈裟をまとった姿だ(写真はモノクロであるが、そのようなことは問題ではない。)。
たとえ、日本の仏像であったとしても、仏の姿というのは、そうした一枚の布たる糞掃衣をまとった姿で表現される。
それだけに、まるでブッダや仏弟子の再来であるかのように見えたのだ。
無意識にそうした先生の姿が脳裏に焼き付いていたのであろうか・・・私も、出家をした記念にと、私が出家をした何もない山奥の小さな修行寺で記念撮影をお願いした。
私の手元にはいくつかの出家していた当時の写真があるのだが、そのほとんどは友人や知人からいただいた貰い物だ。
唯一、私からお願いをして撮影をしてもらったものがこの写真である。
先生の改まった写真とは打って変わって、 使い捨てカメラで撮影したものである。 これが私からお願いをして 撮影をしていただいた唯一の写真だ。 |
学生時代に目にした先生のポーズもこの写真とほぼ同じで、全くこのような雰囲気のものであった。
違うのは、バーツを持っているか持っていないかである。
もちろん、先生の方がバーツを持っていて非常に凛々しい姿だ。
タイの人たちは、出家していた時の写真を一生涯大切にするのだという。
おそらくは、先生も、そうしたタイの慣習に従って、写真館で撮影されたのではないだろうかと想像している。
あるいは、遠く離れた郷里にいる家族へ無事を伝えるために撮影されたのかもしれない。
実は、私も、出家していた時、僧院内の友達に誘われて、写真館で撮影していただいたことがあるのだが、それは上半身だけのものであった。
この写真を家族へ贈ってあげたいんだと話したところ、その友達は、『それはとても素晴らしいことだから、是非とも贈ってあげろ。』と大層喜んでくれた。
それだけタイの人たちは家族を大切にするのである。
大学時代にお世話になった佐々木教悟先生の話題に始まり、他愛もない私の思い出話ばかりを書き連ねてしまった。
ブログ『アジアのお坊さん』には、バンコクにあるワット・リアップ寺院内にある日本人納骨堂の話やバンコクの大寺院のひとつであるワット・スタット寺院の話題にも触れられている。
『アジアのお坊さん』によると、佐々木教悟先生もこれらの寺院に滞在され、学ばれたそうである。
何のご縁なのか、ワット・リアップ寺院では、当時の日本人納骨堂の堂守をされていらした駐在僧の方に大変お世話になり、何度も泊めていただいたし、ワット・スタット寺院では、当時、チェンマイで親しくしてくれた私の友達が滞在していたため、数日間泊めていただいたことがあるというご縁がある。
そのような思い出とも重なり、今回、記事とさせていただいた。
学生時代のその当時は、特に何も意識することはなく、ただ講義を聴いていただけであった。
まさか、そんな私がタイで出家を志すことになろうとは、夢にも思わなかったことだ。
今、このようにして、私自身が上座仏教に興味を抱き、出家を志して、実際にタイで出家をして、仏教と瞑想の修学をさせていただいたということも、きっと何かのご縁に違いないと感じるのである。
本当に懐かしく思い出す。
是非とも、あわせて『アジアのお坊さん』~改めて辻政信「潜行三千里」~ も一緒にご一読いただきたいと思う。
【参考文献】
・佐々木教悟著
『インド・東南アジア仏教研究 2 上座部仏教』平楽寺書店 1986年
(※掲載のご許可をいただいて紹介させていただいています。)
(『テーラワーダ仏教との出会いを振り返る』)
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