少々厳しいことを書かないといけないことになるかもしれない。
私も、厳しいことなど書きたくはないのだが、これは、瞑想に携わっている者の一人として、どうしても書かなければならない・・・私は、そのように感じている。
◆善き“きっかけ”となるのなら・・・◆
同時に、私自身への自戒の念を込めて敢えて書かせていただきたいと思う。
まず、単刀直入に言う。
現在、世間で行われている瞑想の大半は“まやかし”だ。
“まやかし”だというと、やや言葉が悪いようであるが、平たくいえば、瞑想の本質からは、大きく外れたものだと言わざるを得えない。
つまり、よく語られている効果・効能を強調するような実利的な瞑想は、瞑想を実践していくその過程において得られる、いわば“おまけ”の部分にしか過ぎないのだということをよく覚えておかねばならない。
言い換えるならば、世間で実践されている『瞑想』のほとんどは、“おまけ”の部分ばかりを追い求めているものだということである。
批判をしたいのか?と思われたことであろう。
そうではない。
むしろ、私は、それはそれで全く構わないと思っている。
しかし、条件がある。
“おまけ”がその人を善き方向へと向かわせる正しい手立てとなるのであれば、それは大いに結構だということである。
◆機が熟せば必ず花が咲く◆
仏教の経典のなかにも適切な手立てを示したうえで、修行者を正しい方向へと向かわせたという説話が示されている。
ゆえに、その人にとって最善の手立てを示し、実利を得るということは全く悪いことではない。
非常に残念に思うのは、“おまけ”が『おまけ』のままで終わってしまうことだろう。
それでは、あまりにももったいない。
しかし、もったいない話ではあるのだが、これもまた、それはそれで構わないと思っている。
その人にとっての悩みや苦しみが取り除かれるのであれば、それは大いに結構なことだからである。
なぜならば、その人自身が持っている資質の問題もあるであろうし、人にはそれぞれの時機というものもある。
所謂“おまけ”を求めて瞑想を実践しようとする者。
あるいは、瞑想や仏法の流れの中へと何の障害もなく入って行くことが出来る者。
人それぞれであると思う。
全員が全員、全く同じで、一律だというわけではないからだ。
仏法という大きな流れとして見るならば、それもまた決して悪いことではないと思うのである。
いつか機が熟し、善き方向へと向かって行く時が必ず来ることであろう。
善き“きっかけ”を積み重ねていくことは善きことである。
◆一人で歩んで行けるようになること◆
少し批判的な厳しいことがらを書かせていただいたかもしれないが、実は、私が普段語っていることがらも、瞑想の本質的な側面から言うならば、“おまけ”の部分の話ばかりである。
しかし、私は、それでも構わないと思っている。
少し考えてもらいたい。
痛みで苦しんでいる者に対して、あなたは何をするだろうか?
痛みを取り除こうとしないだろうだろうか?
痛みや苦しみの最中にある人に対して、人生の本質とは?瞑想の本質とは?などと語ったところで無意味だ。
まずは、痛みを取り除き、心身ともに元気になることが何よりも先決であるはずではないだろうか。
それでこそ、はじめて瞑想の学びという土俵に立てるというものだろう。
それが私の立ち位置であり、私の役目であると思っている。
今、目の前にある問題や課題に対し、真摯に向き合い、解決していくということだ。
そして、それらの課題の解決を通じ、コンディションを調えて力強く歩んでいくことができるようになっていくことこそが大切であると私は考えている。
◆揺るぎないおだやかさとは何か?◆
現在、実践されている瞑想のほとんどが“おまけ”の部分ばかりを追いかけているものだと言った。
断じてそこを批判したいわけではない。
それはそれでいいのだ。
瞑想の真の目的を知っていただきたいのである。
瞑想の真の目的をよく理解をしていなければ、いつまでたっても一時しのぎを繰り返していくことになるだろう。
それでは、進歩することはないし、人間としての真の力は培われていかないだろう。
瞑想とは何なのかをよく理解をしたうえで、当人が目指しているものなり、願っている実利なりを追求していけばよいのである。
積極的に欲望を掻き立てろと言っているのではない。
『あなた』という人間は、あるいは『私』という人間は、どのような存在であるのかということをよく知ったうえで、自己の願望と付き合っていくべきであるということをお伝えしたいのである。
タイの森のお寺で瞑想を学んだ者の一人として、また仏弟子の一人として修行させていただいた者の一人として、願望や欲望に飲み込まれないようにしていただきたいということをお伝えしたいのである。
実利や願望が問題なのではない。
実利や願望に飲み込まれてしまうことが問題なのだ。
実利や願望は、生きていくうえでは、時に力を与えてくれるものであるし、また時に必要なことも多々あることだろう。
言い換えるならば、生活のうえでは必要なものであり、必須のものでもあるだろう。
瞑想の真の目的を知らないということは、これすなわち、人間の真実の姿を知らないことに等しいことだと言えるものだといっても過言ではない。
知らないからこそ、気が付いたら彷徨う破目に陥ってしまうのだ。
彷徨っていること自体に気が付ければまだ幸運だろう。
“まやかし”の瞑想を続けていたのでは、彷徨っていることにさえ気が付くことはできないと、ここではっきりと断言しておきたい。
瞑想とは、何ぞやということを知っていればこそ、どれだけ彷徨うことになろうとも、心配や不安に惑わされることはないだろうし、揺らぐことなく、力強く歩んでいくことができる。
元来、己が有している力でもって、人生の軌道を必ず修正していくことができるものなのだ。
人間の真実の姿を知り、心配や不安などの妄想に惑わされないからこそ、揺るぎない安らかさとおだやかさが展開されてくるのである。
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