タイでは、今の時期は雨期である。
雨季と言っても、日本の雨の降り方とは全く違い、突如として激しく降ってきたかと思えば、30分から1時間もすれば、ピタリと降り止む。
そのような雨の降り方だ。
日本人からすれば、少々不思議な違和感のある降り方である。
ところが、私が出家生活を送った山奥の森の修行寺では、また違った雨の降り方で、しとしとと何日も雨が降り続く。
どちらかと言えば、日本の“梅雨”の時季に近い雨の降り方である。
日本人としては、こちらの方が雨季のイメージだ。
さて、間もなくタイでは、パンサー(安居)の時期を迎える。
2021年(仏歴2564年)は、7月25日がカオパンサー(入安居)の日となり、この日から3ヵ月間、お寺に籠って修行に専念するパンサーの期間となる。
ちなみに、このカオパンサーの日は、酒類の販売が禁止される仏教関連の祝日となっているので、タイで飲酒したいという旅行者は注意されたい。
この3ヵ月の修行期間であるパンサーは、お寺によっては、特別な課題やカリキュラムが組まれていることがある。
しかし、一方で、私が滞在した森の修行寺では、パンサーの期間中であっても、特にカリキュラムなどは組まれておらず、いつも通りの生活であった。
普段通りの日課、普段通りの瞑想修行の生活だ。
パンサーの3ヵ月間をどのように過ごすのかは、各お寺によって異なるのである。
お寺には、サーマネーン(沙弥)という未成年のお坊さん、すなわち小僧さんたちもたくさんいる。
お寺に籠って修行に専念するのは、比丘たちも小僧さんたちも同じだ。
小僧さんたちは、日本で言えば、小学校の高学年から中学・高校生くらいの年齢に当たる。
修行に専念する期間だからといって、小僧さんたちにとっては、ガラリと生活が変わるわけではない。
いつもの通り、境内に併設されているお寺の学校で勉強するのだ。
いわば、パンサーもお寺の学校から言えば、学校行事のひとつといったところだ。
彼らも、もちろん出家者の一員であるから、家族の元を離れて、僧院での集団生活を送る。
日本人の多くは、寂しくて窮屈な生活を送っているのではないかと想像する者が多いと思うのだが、実際に彼らと触れた私から言えば、それは全く当てはまらない。
寂しいどころか、どこかまるで“林間学校”のような楽しさがある。
出家とは言っても、まだまだ若いこともあり、私が出家を決めた覚悟、タイへ渡った覚悟のように、瞑想云々であるとか、仏教云々であるとかは、一切考えてはいない。
明るく、楽しく、友達たちとワイワイ、ガヤガヤと過ごしている。
全く窮屈な雰囲気も、暗い雰囲気も一切感じない。
現在のお寺は、どうなのかはわからないが、私が出家をしていた当時は、ひとつのテレビを10人くらいの小僧さんたちが取り囲みながら、みんなで一緒になって真剣に見入っていた。
こっそりと私も混ぜてもらい、テレビを見せてもらった。
放送されていたのは、なんとタイ語に吹き替えられた日本のドラマ。
深田恭子さんが出演していたのを覚えている。
ある小僧さんは、珍しい外国人である私を、こっそりと自室まで引っ張っていって、おしゃべりをしたこともあった。
またある小僧さんは、将来の夢を私に熱く語ってくれた。
とてもキラキラと輝いていた彼らの美しい“眼”が忘れられない。
それはそれは、楽しいひと時であった。
私の少年時代は、これほどまでに心豊かで、こんなにもいきいきと輝きながら、生きていただろうか?
これほどまでに熱く夢を語れるような少年だっただろうか?
タイの小僧さんたちとともに過ごしながら、つい自身の心に問いかけた。
私がタイのお寺で過ごしたのは、もう20年も前になる。
彼らも、もうすでに大人になっているはずだ。
その後も、出家生活を続けている者、社会や家庭へと還っていった者・・・それぞれの人生を歩んでいることであろう。
みんなきっと、立派な大人に成長していることと思う。
いや、立派な大人に成長しているに違いない。
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