本来、森のお寺とは、町のお寺で出家をして、仏教の学問を修めたうえで、さらに瞑想修行を志そうとする者たちが集うお寺である。
そうした過程の短縮版とも言うべき一時出家の形が、一定期間の出家を終える前に、その出家生活の締めくくりとして、森の修行寺で瞑想生活を送り、還俗をするというものだ。
有名な修行場へ行くと、こうした一時出家の比丘たちと出会うことができる。
とは言うものの、近年は、直接、森のお寺で出家することもできる。
尊敬を集める比丘や著名な瞑想指導者の元で出家したいという篤い志の現れであろう。
森のお寺の他には、「瞑想センター」という修行場の存在もあるのだが、“瞑想センター”というと、まるでお寺ではない全く別の施設であるかのような印象を受けるが、瞑想センターと言っているだけで、瞑想修行専門のお寺のことである。
こうした存在も森のお寺と同様に、基本的は別のお寺で出家をして、一人前の比丘としての体裁を整えてから、瞑想修行へと入るための場所だ。
聞くところによると、タイよりもミャンマーの方が多くの瞑想センターが存在するようであるが、あくまでも伝え聞くところの話である。
さて、ここからが本題だ。
修行寺たる森のお寺とは、特に瞑想修行を志す者たちが集うお寺であるというのが、本来のその性格である。
その森のお寺の瞑想指導者によって千差万別で一概には言えないのだが、システマティックな指導体系を持たないところが少なくない。
何かを習得すると言うと、一般的な日本の教育体制の中で育ってきた日本人としては、教える人がいて、教えられる人がいる、という非常に受け身的な価値観を持っているのではないだろうか。
自ら求めて行くという姿勢に慣れていないのだ。
ゆえに、森のお寺の、よく言えば自由な雰囲気、悪く言えば瞑想指導が全く明瞭ではない環境に大層違和感を覚えたのであった。
瞑想法も、ひとつの瞑想法を指導されるわけではなく、ある時はサマタ的な指導がなされることもあれば、またある時はヴィパッサナーの瞑想を指導されることもあって一定しない。
森のお寺というところは、一体、どういうところなのだと思ったものだ。
ところが、これは、私のとんでもない思い違いであった。
一見すると、全く別で、統一感がなく、まるで体系的でない瞑想指導のように感じられた森のお寺であったが、のちに非常に有意義な、かつ非常に臨機応変な指導であったと感じるようになった。
タイでは、ヴィパッサナーに至る瞑想であれば、それらは全てがヴィパッサナーの瞑想であり、全ての瞑想は、気づきと観察・洞察へと繋がる、あるいは全てをヴィパッサナーへと繫げていくための瞑想であるのだ。
だから、何を修したとしても矛盾することはないし、どこから始めても同じところへと至るものであるし、全てが間違いではないのである。
怒りや不安、恐怖や心の乱れなど、感情に呑み込まれそうな時、あるいは吞み込まれてしまったり、圧倒されてしまった時には、まずは心を落ち着かせることを最優先させる。
そうした時には、サマタ的な瞑想を修して、心を落ち着ける。
そのうえで、自身の心の変化や身体の様子などを観察していくヴィパッサナーの瞑想へと入っていく。
指導は、非常に臨機応変なのだ。
ともあれ、修行が進んでいない我々凡夫は、ずっと心が安定しているということがない。
すぐに心は乱れて、不善なる心を生み出してしまう。
しかし、逆に、心が乱れて、ずっと不善なる心のままということもない。
常に落ち着かず、次から次へと、変化してやまないのが私たちの心である。
そうした心にいかに対応して、どのように対処していくのかという点が、日常をより心おだやかに生きていく重要なポイントとなるだろう。
心が火事の時は、まずは避難だ。
避難をしなかったらどうなってしまうだろうか?
瞑想も同じことである。
森のお寺でも学び、瞑想センターのようなところでも学び、総合的に学びとっていくも良しである。
タイにおいても多数を占めるマハーシ式の瞑想法を専一に修するお寺は多いし、一部に、徹底してサマタの瞑想を修するところもある。
このような、ある特定の瞑想法を、ある特定のところで専一に修行していくというのも良しである。
こうした学びが自由にできるというのがタイの仏教の大変素晴らしいところだ。
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