私がタイで出家したお寺は、本当に何もない森の中の小さなお寺だ。
何もないお寺であるから、実に静かである。
毎日、このような静かな環境の中にいると、日頃は、全くわからなかったことがたくさん見えて来る。
改まって瞑想しなくとも、ただただ森のお寺の中で過ごしているだけで、それ自体が瞑想になるというか、何とも言えない不思議な感覚となる。
ただそれだけで、とても心が安らかになってくるのである。
少し言い過ぎなのかもしれないが。
このような静かな環境は、ひと昔前の時代の人であるのならいざ知らず、私たち現代人にとっては、非常に大切な時間と空間なのではないかと思う。
こうしたタイでの経験から、私は、日々の生活の中において、静かな時間を持つことやおだやかな時間を持つことを重視している。
タイの森のお寺では、あれだけ心が安らかになり、おだやかだったにも関わらず、日本へと帰国をして、日本の生活の中へと入った途端に、そのようなことなどほんの一息で吹き飛んでしまった。
仕事あり、人間関係あり、やらないといけないことあり、嫌なことあり、辛いことあり、悩みばかりの日々だ。
瞑想などやったところで、何も解決しないではないか!
静かな時間が何の役に立つと言うのか!
・・・このような状態に陥ってしまったのだ。
しかし、短時間であったとしても、毎日瞑想を続けて、ほんの少しのおだやかな時間を持つように心がけているうちに、少しずつわかってきたことがあった。
それは、森のお寺で教えていただいた、実にたくさんの教えや言葉の数々は、全て間違いではなかったということである。
「迷走」してしまうのは、無駄な遠回りであったと考えがちだ。
確かにそうした一面はあるかもしれない。
できることならば、「迷走」などしない方がいいに決まっている。
だが、遠回りだと考えれば、ただの無駄な行為に終わってしまう。
しかし、それは違うと断言したい。
ただの遠回りなどではない。
私には、その遠回りな過程が必要であったのである。
決して無駄な実践だったのではなく、大切なひとつの「過程」であったのだ。
今ならはっきりと、そのように言うことができる。
「迷走」も求道に必要な「過程」だったのだと。
森のお寺での瞑想修行、お世話になった師から教えていただいた教えや助言の数々・・・。
ひとつひとつが生活の中で証明されてくる。
ひとつひとつが実証される。
そして、ひとつひとつが、日を追うごとに腑に落ちてくる。
全て間違いではないし、全て命が宿った活き活きとした言葉であったのだということが、今更の如くに身に染みるのである。
「迷走」も私に必要なひとつの「過程」だったのだ。
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