タイでは、優れた暗記力を持つ者が“頭がいい人”と呼ばれる。
要するに、記憶力が良い人が頭がいい人と言われるわけである。
そこには、思考能力であるとか、判断能力であるとかは一切関係がない。
最近で言うところの、総合的に考える能力云々などといったこととは程遠い気がする。
賛否はさて置き、伝統的にそのようになっているのである。
これは、インドを含む仏教文化圏全般においては、ごく一般的なことであって、おそらくは経典を暗唱することによって仏教を伝えて来たことから、このような文化が根付いているのではないかと思われる。
現在のタイの僧院においても、基本的には同様で、お経をはじめとして、その他諸々全て暗唱するのが基本となっている。
朝夕の勤行から、お寺で行われる仏教に関する特別な儀式、信者宅で催行される儀式に至るまで、全てが暗唱で、経本もなければ、その他次第等も一切ない。
毎日読むお経ならば覚えらるということもあるが、ごくたまにしか使わない、あるいは滅多に使わないような長いお経まで全て覚えているというのは驚きである。
私からすれば、よくそれだけ頭の中に入るものだと感服してしまうのだが、それがインド以来、仏教の教理を正確に伝えていく手段として、人から人へと一言一句間違いなく“暗唱”して伝承されてきた伝統なのだ。
さて、画像の建物は、私が出家をした森の修行寺の「布薩堂」である。
「布薩堂」というのは、お寺の中で最も重要とされている建物で、仏教の生命とも言える戒律にまつわる建物である。
布薩堂を有するお寺が正式な寺院として認められることから、いかに重要な建物なのかがわかる。
なお、布薩堂を有さないお寺のことは、“(仏教を)教える施設”と呼ばれ、正式な寺院としては扱われない。
もちろん、正式な寺院ではない場所で出家をして比丘となることもできない。
布薩堂では、出家の儀式、すなわち授戒の儀式であったり、満月の日と新月の日に行われる布薩(戒律に違反した行為が無かったかどうかを確認し、反省する儀式)の儀式などが行われる。
毎月の布薩の儀式では、227条ある戒(パーティモッカ/波羅提木叉・はらだいもくしゃ)を全て“暗唱”でもって読み上げる。
暗唱で戒を読み上げる者の後ろ側には、読み上げている条項に言い間違いがないかどうかを確認する役目の比丘が控えており、しっかりとチェックされているのである。
習慣として短期間の出家で還俗していく者もいる中で、全てを暗唱している比丘の数は、さすがに少ないらしく、パーティモッカを全て暗唱して誦唱することができる比丘は、他のお寺へも呼ばれて布薩の儀式へ出向くこともあるようだ。
こうした儀式は、これからも変わることなく暗唱でもって催行されていくのであろうけれども、書籍をはじめとして、特に近年様々な機器が発達してきた現代において、影響されないかどうかが気になるところである。
ところで、お寺の中で最も大切な建物が、大層質素な建物のように見えたのではないだろうか。
通常であれば、お寺の中で最も大切で、一番重要な建物であれば、最も立派で荘厳な建物であるはずだ。
しかし、ご覧のとおり、ヤシの葉っぱで拭いた屋根、風も雨も全て吹き込んでくるような柱だけの建物。
お寺の中で最も大切な建物のはずが、お寺の中で最も質素で簡素で、言葉は悪いのかもしれないが、いかにもみすぼらしい建物なのだ。
これは、一体、どういうことなのだろうかと思う。
私は、この点に益々の素晴らしさを感じたのである。
普通であれば、お寺の中で一番大切な建物で、一番立派で荘厳に建ててあるはずの建物が、お寺のなかで一番質素な建物となっている。
何も知らなければ、この建物がお寺の中で一番大切な建物だなんて、誰も気づかないだろう。
仏教の生命は、外見が立派であることや荘厳さを競うことではない。
よく戒律を守り、怠らず修行に励んでいくことである。
ここにこのお寺の精神がよく現れているように感じた。
ブッダに憧れ、原始仏教に憧れてタイまで学びに来た私にとって、まさに衝撃を覚えるような景色であった。
お堂を建てたいと表明すれば、資金の提供者は必ず見つかるのがタイである。
なぜ、このお寺が今でも立派な建物へと建て替えることなく、このようなスタイルを貫いているのかがよくわかるのではないかと思う。
街のきらびやかで、荘厳なお寺で出家するのもまたいいかもしれない。
しかし、私は、この質素な建物で、人知れず出家できたことを誇りに思うところであるのだが、その誇りをも捨て去って行かなければならない。
まさに、そうした心の道のりをこのお堂は表現しているのかもしれない。
(『質素な建物が語りかけていること』)
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