タイの森の中の小さな修行寺でのことであった。
私が出家をしたお寺だ。
雨安居の時期は、数名の比丘が集いそれなりに賑わうのだが、それ以外の時期は、本当に静かなお寺である。
森の中の小さな修行寺の僧院長。
私の直接の瞑想の先生。
そして、私。
たったこの三人だけで過ごした日が何日もあった。
いくら人数が少なくても、やはり修行寺であるから、私語はもちろん厳禁だ。
それでも、たくさんのお話を聞かせていただく機会があった。
特に直接お世話になった私の瞑想の先生とは、二人で過ごした日もあり、たくさんの会話を交わした。
先生と二人だけで過ごす時は、先生の荷物持ちや身の回りのお世話役をさせていただくことが多い。
そこでは、実にいろいろな会話や心の交流があった。
他愛のないそうした会話の数々は、そのひとつひとつが大切な“教え”や“諭し”である。
・・・と、このように思うようになったのは、実は、随分と後になってからだ。
お恥ずかしい限りの話である。
還俗し、日本へ帰国してからのことであろうか。
日本では、先々のことを考えて、周到な準備を整えてから行動していくことが良いとされている。
一年後のこと、三年後のこと、十年後のこと。
しかし、そのようなことなど考える必要は全くないのだと先生は言う。
なぜならば、過去や未来のことは、全て自分の頭の中にだけある、ただの妄想でしかないからだと。
自分の妄想通りになることもあれば、全く自分の思っていた通りにならないこともたくさんある。
それは、少し瞑想を実践すれば、誰にでも明らかに理解ができることだ。
その時、先生は、
「先々のことは考える必要はない。
ただ半歩先を見る程度でちょうどいいのですよ。」
と言われました。
計画的にものごとを進めていくことはとても大切なことである。
しかし、起きてもいない未来のことを、あまりにあれやこれやと考え過ぎてしまうのは、妄想にふけり、空想に遊んでいるだけに過ぎないということだ。
過去のことについても同様であろう。
場合によっては、勝手に悩みや苦しみを自分自身で増やしているだけであろう。
“取り越し苦労”という言葉がある。
確実に起きるかどうかわからないようなことを、あれやこれやと“勝手に”悪い方向へと妄想して不安や心配を膨らませて抱え込んでしまうことを言う。
はっきりと言ってしまえば、そような類の不安は、抱える必要のない不安であり、不要の苦しみであると言えよう。
肝要なのは、今、考えるべき問題なのかどうかを見抜いて判断する力だ。
「対応力」があれば、何も慌てることなどなくなるはずである。
冷静で客観的であればこその力だ。
毎日毎日、慌ただしく、忙しい。
時代の流れも、かつて人類が経験したことがない程のスピードで進んでいる。
非常に移り変わりの速い現代社会。
行き当たりばったりな考えではいけないことも多くあることだろう。
だからこそ、先生は、
「半歩先を見て歩けばいい。」
と、私におっしゃったのだろうと思う。
いつも私は、先生のこの言葉を機会があるごとに思い出すようにしている。
いや、どこからともなく、自然と聞こえてくるのである。
この言葉で、私は、随分と“取り越し苦労”をすることが減ったように思う。
日々、先生の言葉を噛みしめている。
適切な“対応力”を身につけていけるよう心を磨いていきたい。
(『師の言葉・半歩先を見て歩く』)
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