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もし、「ねばならない」ということがあるとするならば、それは「死ぬ」ことくらいだろう。
生きている以上、「死ぬ」ことは避けて通ることはできない。
それを除けば「ねばならない」ことなどなにもない。
私は、どうやらこの「ねばならない」ということにとらわれ過ぎて、過度に抱え過ぎていたようだ。
私が瞑想に励んだタイの森のお寺でのこと。
森のお寺というのは、瞑想するには実に最適な環境である。
しかし、その反面、本当に何もない。
しかし、その反面、本当に何もない。
さすがにカレンダーくらいはあるのだが、日を追うごとに日付も、曜日も全くわからなくなってくるくらい、淡々とした日々なのだ・・・
瞑想、勤行、托鉢、朝食、瞑想、掃除、瞑想・・・来る日も来る日も、ひたすらこの繰り返しである。
・・・それが、森のお寺での生活だ。
瞑想、勤行、托鉢、朝食、瞑想、掃除、瞑想・・・来る日も来る日も、ひたすらこの繰り返しである。
・・・それが、森のお寺での生活だ。
そんな森のお寺での生活にも慣れてきた頃、私は、あることを感じた。
あぁ・・・実は、日にちも、曜日も、時間も、人間が勝手に決めたものだったんだ。
月曜日とか火曜日とか、本当は決まってなんかいないんだ。
全部、全部、人間が勝手に決めたものだったんだ。
あれをやらなければ、これをやらなければ・・・
今まで、一体、何に追いかけられていたんだろうか!
今まで、一体、何に追いかけられていたんだろうか!
実際に、森のお寺で生活をし始めた頃、“正体不明の何者かに追いかけられる夢”というのをよくみた。
日本で生活していた時の感覚が抜け切っていなかったせいなのだろうか、夢に意味などはないが、きっと、そんな心理状態だったのだろう。
日本で生活していた時の感覚が抜け切っていなかったせいなのだろうか、夢に意味などはないが、きっと、そんな心理状態だったのだろう。
実は、「ねばならない」ことなど何ひとつないのだということに気がついた時、本当に気持ちが楽になったことを今でもはっきりと記憶している。
この感覚、おわかりいただけるだろうか・・・。
ところが・・・そうは言いつつも、日常生活の中では、やはりやらなければならないこともあるというのが現実だろう。
私達は、社会の秩序の中で生活をしているからだ。
ゆえに、一面では、それは仕方のないことでもあろう。
だが、「ねばならないことなど何もない」ということを知ったうえで、日常を生きてみるとどうだろうか?
ともすると、「ねばならない」ことばかりであると思い込んでしまってはいないだろうか?
森のお寺のクティ(居室)
木々に囲まれた、実に静寂な空間である。
私が出家生活の最後を過ごした 思い出深い森のお寺のクティ。
還俗し帰国を決意したのち、 出家生活を心にとどめておきたいと 記念に撮影したもの。
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やる必要のないこと。
考える必要のないこと。
やらないといけないと思い込んでいること。
ただ頭の中だけで“あれや”“これや”と妄想していること。
そんなことがらがなんと多いことか!
勝手に思い込んで、勝手に自分を苦しめていただけではないか!
ところが、実際問題として、「ねばならない」ことは多い。
だが、「ねばならない」ことなど何もないのだということをただただ知るというだけで、随分と楽な生き方ができるようになる。
今までこんなにも簡単なことがわからなかった。
森のお寺での生活と瞑想実践は、そのことを私に教えてくれたのであった。
今までこんなにも簡単なことがわからなかった。
森のお寺での生活と瞑想実践は、そのことを私に教えてくれたのであった。
(『「ねばならないこと」など何もない』)
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