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この存在を知ったことは実に大きい。
さらに言えば、ブッダの時代により近い形での出家生活を送りたいというのが出家を志したそもそもの動機であった。
これは、逆に言えば、「ブッダの時代により近い形での出家生活」を具現化した形態が“森のお寺”であるという点に注目したのだ。
タイの森のお寺での出家生活は、私の人生の転換点であったと言っても過言ではないほどの大きな学びを与えてくれた。
私が森のお寺で学んだ“生き方”とは、仏教の最も大切な要素とも言えるものだ。
私は、今、比丘として生きてはいないし、また日本の僧侶としても生きてはいない。
しかし、その後の人生を出家者として生きていようとも、在家者として生きていようとも、仏教を生きるにあたっては、そのようなことは大した問題ではない。
出家か在家か・・・それは、単に過程の問題にしか過ぎないからだ。
大きな学びなどと言うと、一体どれほどの修行をしてきたのだと言われるかもしれないが、どうと言うことはない。
単になにもないところで生活をする、ただそれだけだ。
単になにもないところで生活をする、ただそれだけだ。
それが学びなのかと拍子抜けをしただろうか?
広げれば一枚の布である袈裟と腰巻を身にまとう。
毎朝の托鉢で食を得て、鉢を用いて食べる。
家具など一切ない、小さくて質素な小屋で寝起きをする。
そして、静寂な森の中で、静かに瞑想する。
こうした日々の繰り返し。
実にシンプルな生活だ。
私が長らく止住していたある森のお寺のクティ。
この写真は、写真好きのタイ人が 記念にと私を撮影してくれたもの。
森のお寺で修行していた時の 私の姿が写っている貴重な一枚だ。
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今、こうして手に触れているパソコン、今や生活必需品でもある携帯電話、そのようなものは何ひとつない。
余分な衣類、余分な食べ物、余分な物品はない。
家財道具類ももちろんない。
テレビやゲームなどの娯楽品も当然ない。
生活に必要な最低限のものしかないのだ。
電話やテレビも生活に必要なものではないかという声が聞こえてきそうであるが、そこを基準にしている人たちにとっては、想像もつかない生活であるのかもしれない。
出家をしていた当時を振り返って書いているのであるが、ふと・・・自分の周りを見渡してみた・・・なんと多くの不必要なものに囲まれていることか!
その事実を改めて知り、確認する。
ただそれだけで、不思議とすーーっと心が静かになっていくのを感じた。
この感覚は言葉に表現することができない・・・
森のお寺での暮らしは、まさに「庵(いおり)暮らし」という言葉がしっくりとくるように思う。
厳密に言えば、僧院生活なのであるから「庵暮らし」ではない。
しかし、それに近い生活が展開されているのだ。
“実際に”。
日本においても仏教の生き方を求めた結果、隠遁生活を選んだ僧侶や質素な庵暮らしへと行きついた僧侶の話は枚挙に暇がない。
やはり、日本へも確実に仏教の精神は伝わっているのだ。
僧侶でなくとも、多くの人にとって、どこかにそうした心穏やかで美しく、かつ質素な生き方への憧れというものがあるのではないだろうか。
なんにもない生活なのであるが、不思議なほど心穏やかな生活。
私は、そのような生活は、タイの森のお寺以外では経験したことがない。
しかしながら、今の生活様式から離れることは、実際には困難だろう。
不必要なものとは言いつつも、やはり“それなりに”必要なものばかりだ。
だが、その本質的なことがらをよく理解し、心得ておくことくらいは必要なことであるかと思う。
そのうえで上手く付き合っていくことこそ、心穏やかに生きていくための秘訣であるし、なによりもそれが仏教の生き方だと私は考えている。
(『森の中の庵暮らし』)
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