『自然』な生き方とは、一体、どのような生き方なのであろうか。
私が、タイの森の修行寺へ入ってまだ間もない頃、出家をする前のことで、在家者として雑用というか、諸々のお手伝いしながら瞑想を実践し、学んでいた頃のことである。
上から数えて何番目かの大長老の比丘から賜った忘れられない言葉がある。
『あなたは、もう、修行者です。
いいですか、あなたは、自然を学ぶ者なのですよ。』
この言葉の意味がわかるだろうか。
ある日、唐突このように上から数えて何番目かの大長老の比丘から言われたのであった。
余談であるが、タイの素晴らしいところは、日本では到底話すことさえ望めないような立場の方、所謂“偉い”お方や“著名な”お方とも、比較的容易に、かつごく普通に話せるところだ。
なぜ、私がそのような立場の方と言葉が交わせるのかがわからないこともあるのだが、これはタイのどこへ行ってもそうで、立場に天と地ほども差のあるお方と、意外過ぎるほど簡単に面会できたり、言葉を交わすことができてしまうのだ。
日本では全く考えられない。
話を元に戻そう。
そのようなベテラン比丘というか、大長老の比丘から賜ったお言葉ではあったのだが・・・
正直に告白をすると、ピンと来なかったのだ。
なぜ『瞑想』を学ぶことが、『自然』を学ぶことなのか?
・・・あなたは、それがどういうことなのか理解できるだろうか?
当時の私には、それがわからなかったのである。
さて、『自然』は、タイ語で『タンマチャート』と言う。
『タンマチャート』の『タンマ』とは、『ダンマ』(梵:ダルマ・巴:ダンマ)のタイ語訛りであり、『法』や『仏法』を意味する言葉である。
『自然』を意味するタイ語の中に、『仏法』を意味する言葉が含まれているのだ。
言葉のルーツとしてということにはなるが、タイでは、『自然』という存在を仏法そのものとして捉えていることが窺える。
無常や縁起といった仏教の考え方は、真実、真理である。
言い換えるとするならば、それは『自然の摂理』である。
私たちは、自然の法則、自然の定め、自然の流れのなかにありながら、それに従い、それに沿いながら、今のこの瞬間を生きているのだ。
我々人間の営みも、私個人の活動も、そうした自然の摂理のなかのごく一部であり、大自然の大きな流れのなかのほんのごく一部分でしかないのである。
そして、その流れに反することはできないのだ。
反することができないその流れに対して、強引に抵抗しようとしたり、逆流しようとすることで、大きな苦しみが生じるのである。
私たちの人生において絶対に避けることができないものに、『老』・『病』・『死』がある。
仏教のごく基礎の教えであり、根幹をなす教えであると同時に、自然の摂理であり、ごく自然で、ごく当たり前の流れのうえにあるものだ。
老いることは、不自然な姿であろうか?
病になることは、不自然な姿であろうか?
死ぬことは、不自然な姿であろうか?
決してそうではないはずだ。
不自然どころか、むしろ、ごく自然な姿であり、ごく当たり前の姿ではないだろうか。
ところが、どうであろうか。
なかなかそうした当たり前の姿を受け入れられないため、耐え難い痛みを味わい、多大なる苦しみに喘ぐ破目になってしまうのだ。
私は、仏教の大学に学んだ。
実は、学生の頃にも仏教学のある教授から、冒頭に紹介した言葉と同じ意味合いの言葉を聞いていたのだ。
どのような言葉かというと・・・
『仏教とは、当たり前のことを当たり前に受け取っていくことである。』
仏教学のある教授は、このようにおっしゃっていた。
ところが、当時の私は、大長老の比丘から賜った言葉と同様に、教授の言葉の意味するところがサッパリ理解できなかったのだ。
当たり前のことを当たり前に受け取っていくとは、一体、どういうことなんだ・・・
そもそも、当たり前のこととは何なのか・・・
しかし、今では、よくわかる。
そうとしか言いようがない。
それ以外に表現のしようがないではないか。
タイの森の修行寺で瞑想の実践を重ねてきたことで、『瞑想』(仏教)とは『自然であること』の意味をよく理解することができた。
森の修行寺での生活自体が『自然であること』を体現した生活だ。
如何なる者であっても、一歩、森の修行寺へと足を踏み入れれば、身体を通して『仏法』すなわち『自然』を体得できるのである。
それが森の修行寺であり、森林僧院だ。
あの時、タイの森の修行寺の大長老から賜った言葉・・・
『あなたは、もう、修行者です。
いいですか、あなたは、自然を学ぶ者なのですよ。』
の意味が腑に落ちた瞬間だ。
同時に、仏教学の教授がおっしゃっていた言葉・・・
『仏教とは、当たり前のことを当たり前に受け取っていくことである。』
の意味が腑に落ちたのだ。
タイ語には『普通の』であるとか『ありふれた』ということを意味する『タンマダー』という言葉がある。
ここにも『ダンマ』(仏法)という言葉が含まれている。
当たり前であり、ごく普通であること。
それがすなわち『自然』だ。
ごく自然であることは、何の変哲もないごく普通のことだということである。
『瞑想』とは、『自然であること』。
『あなたは、もう、修行者です。いいですか、あなたは、自然を学ぶ者なのですよ。』
『仏教とは、当たり前のことを当たり前に受け取っていくことである。』
これらの言葉は、何を言わんとした言葉で、何を伝えようとした言葉なのかがストンと心の底から納得することができた。
『自然であること』
自然を学ぶこととは、それはそのまま仏教や瞑想を学ぶことであり、またそれはそのまま森の修行寺での学びなのである。
ゆえに、森のお寺では、瞑想に関して自然であるように、無理のないように、そして安らかであるようにと教えられるのである。
無理をしてはいないだろうか?
いつの間にか不自然で苦しい状態になっていないだどうか?
私たちもまた自然のごく一部であり、それぞれの関係性(因縁・縁起)のうえに成り立つものであり、今を生きているのだということがよく観察することができたその時・・・
ギュッと固く握りしめていたものを、そっと手放すことができるのではないだろうか?
抱え込んでいた重荷を降ろして、心を軽くして、安らかになるのではないだろうか?
心が重たくなった時や、様々なものを抱え込んでしまって苦しくなった時は、『自然であること』を思い出していただきたいと思う。
(『あなたは、自然を学ぶ者である』)
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