タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/04/29

サティの言葉と『マントラ』


タイには大きく分けて5つほど瞑想方法の流れがある。


そのなかで「言葉」を用いる瞑想方法がいくつかある。



その代表的なものが、通称『プットー』の瞑想である。


あるいは、通称『ユップノー』(※タイでは、このように通称されている)こと、日本においてもよく知られているミャンマーから伝えられたマハーシ式の瞑想法である。


※西洋人の間では、マハーシスタイルであるとか、マハーシメソッドなどと呼ばれている。


これらふたつの瞑想であるが、同じ言葉を用いるタイプの瞑想ではあっても、実は、この両者における「言葉」の位置づけは全く異なるものだ。



まず、『プットー』の瞑想において用いられる「プットー」という言葉は、呼吸を同調させながら「プットー」という“言葉”を用いて行う仏隨念(ブッダを思い、ブッダの徳を思う)というサマタの行法としてのものである。


なお、“プットー”とは、「ブッダ」を意味するパーリ語のタイ語訛りである。


『プットー』の他に、『タンモー』、『サンコー』などの言葉を用いることもあるが、『タンモー』とは、「ダンマ」のタイ語訛りで法随念、『サンコー』とは、「サンガ」のタイ語訛りで僧随念である。



一方で、『ユップノー』こと、マハーシ式の瞑想において用いられる“言葉”は、「サティ(気づき)」の言葉としてのもので、「ユップノー・ポーンノー(縮み・膨らみ)」という“言葉”を用いて、その状態に気づき、サティ(気づき)を行っていくという行法としてのものである。


そこには、隨念や憶念(思い起こすこと/仏隨念・法隨念・僧隨念)というサマタの行法としての意味合いは全く含まない。


ただ「サティ(気づき)」の手立てとしての「言葉」であるだけだ。











ところで、今回、なぜ敢えて瞑想実践上用いることがある「言葉」について採り上げたのかというと、あるタイ人瞑想指導者がこのような「言葉」をひと括りにして『マントラ』だと説明しているのを耳にしたからだ。



『マントラ』というのは、サンスクリット語で「文字」や「言葉」を意味する言葉で、大乗仏教や密教においては「真言」と訳される。


ところが、注意しておきたいのが、一般には神秘的な呪文のようなイメージを含むものとして理解されていることがあるという点だ。


用語本来の意味や、仏教的・密教的な意味を正しく理解して使っている人は少ないだろう。



私個人としては、瞑想時に用いる言葉に対して、神秘的な意味合いや呪術的なイメージなどは微塵も持ち合わせていなかったのであるが、一般的にはどうやらそうではないらしい・・・このようなところから、私の疑問が始まったのであった。



ゆえに、瞑想実践上使用することがある「言葉」について、『マントラ』と説明するのは適切なのだろうかという疑問を抱いくに至った次第である。



『マントラ』という言葉自体の意味は、先述の通りであり、瞑想実践上の意味合いについても、すでに述べた通りである。


ゆえに、用いる言葉について、神秘的意味合いを持たせるものではなく、願望成就を祈願する一種の呪文としてでもなく、思い起こす「仏隨念(または法隨念、僧隨念)」としてのサマタの行法、あるいはサティの“言葉”としての手立て意外には意味はない。



要は、そのタイ人瞑想指導者の説明を聞いた日本人が『マントラ』という言葉に対して、どのように理解をしているのかという問題であろうかと思われる。


瞑想への深い理解があれば何も問題はないのであるが、近年の日本の瞑想“界隈”の状況は、多種多様な瞑想が混在しており、非常に混沌としているのが現状だ。


仏教の瞑想だけが瞑想ではないわけである。



インド由来の(仏教以外の)瞑想で、『マントラ』を使用する瞑想も複数存在する。


そうした流れの瞑想実践者も、やはり『マントラ』という言葉を使用しているが、もちろんここで説明したような仏教の行法としての意味と全く同一のものとして理解し、使用しているとは限らない。


そもそも、瞑想の手法が変われば、瞑想の目的も、瞑想の定義も、用語の意味合いも、全て異なる。


ここを理解していない日本人は、非常に多い。



同じ意味で『マントラ』という言葉を語っているとは到底思えない。



その瞑想の流派の実践者は、当然のことながら、その瞑想の流派における意味や意義を理解したうえでの実践であることは当然であるが、それを一般に求めるのは少々酷というものだろう。



ゆえに、『マントラ』という語に神秘的なイメージが一切ないのかといえば、そうではないし、それが一般の共通理解であるとも思えないのである。


むしろ、用語本来の意味とは関係なく、神秘的かつ呪術的イメージを抱かせるというのが一般の共通理解であるのではないだろうか。



私たち仏教の瞑想実践者、特に上座仏教における瞑想実践の行法としての止(samatha)と観(vipassanā)のあり方をよく理解しておく必要がある。


また、もし、瞑想に言葉を用いる場合、言葉自体に神秘的作用を含ませることのないサマタとヴィパッサナーの実践方法のひとつであるということをよく理解しておく必要があるだろう。


その「言葉」が他の瞑想の流派における『マントラ』とは、性格を異にすることがあるということも併せて知っておくべきであろう。



最後に、これは、私個人の所感ではあるのだが、もし・・・


私が瞑想を指導する立場であったとするならば、瞑想実践上使う「言葉」のことを『マントラ』という言葉を用いて説明するようなことは避けるだろう・・・と、思うところであるが、果たしてみなさまはいかがお感じであろうか。




(『サティの言葉と『マントラ』』)






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