『無常』・『苦』・『無我』・・・タイの仏教においては、非常に重要な基本的教理で、タイのお寺にいれば、頻繁に耳にすることになる言葉だ。
同時に仏教の実践行たる瞑想においても、非常に重要な位置を占めているものである。
なぜならば、『無常』・『苦』・『無我』とは、私たち人間の身体と心の真実の姿であり、その真実の姿をよく知り、観察し、洞察していくことこそが瞑想であり、その目的だからだ。
『無常』・『苦』・『無我』をよく知り、よく観察し、よく洞察していくことで、身体と心への執着から脱していこうとするものである。
・・・ここまでは、どの瞑想の解説書であっても書かれていることであるし、どの瞑想指導者であっても言及するであろうことである。
それでは、瞑想実践者であり、仏道実践者たるあなたは、どこまで理解し、どこまで腑に落とし、どこまで深められているであろうか?
問われるのは、この点である。
ここからは、大変恐縮であるが、私個人のことである。
正直にお話をさせていただくと、『無常』・『苦』・『無我』について、ありありと実感できているわけではない。
全てのことは、みなそらごと、たわごと、真実のことなど何もない。
ところが、私は、それらを頭でわかっているだけに過ぎない。
仮に、真に腑に落ち、心の奥底から理解し、真実の姿がありありと観えていたとするならば、今、このようにしてはおられまい。
いても立ってもおられなくなるだろう。
真実の姿が未だ観えず、かりそめの世界に酔いしれているからこそ、今、このように、のうのうとしていられるのである。
私の煩悩は根深く、本当の意味において『無常』・『苦』・『無我』を観てはいないし、また全くと言っていいほど観ることができていない。
大変情けない限りの姿なのである。
しかし、大切なのはここからであると思っている。
たとえ頭で知識としてだけ知っているだけだとしても、それは全く知らないよりは遥かに勝っている。
このような私の情けない姿をも含めた世の中の本当の姿、つまり真実の姿をしっかりと見ていこう、知っていこうとする「姿勢」を持つことこそが重要なのではなかろうか。
自分自身の姿をも含めて、きちんとわかったうえで、さまざまな事象とつき合っていくことこそが肝要であるということだ。
例えば、
今から急ブレーキを踏むということを知ったうえで受ける衝撃と、全く知らずに不意に急ブレーキを踏まれた時の衝撃とでは、受ける衝撃の大きさが全く違うはずだ。
同様に、たとえ自身の『無常』・『苦』・『無我』に対する深め方がいまだ不完全なものであったとしても、わかったうえでつき合っていくことで、その受け止め方が大きく違ってくるはずである。
私は、日々、『無常』・『苦』・『無我』を深めていこうとする「姿勢」を持ちながら生活をしていくことが重要であると考えている。
そのようにしていくことで、たとえほんの少しずつであったとしても、その深まりが増していく。
いわば、『瞑想』とは、意識の方向性である。
意識を向けていく方向性は、極めて大切だ。
意識の方向性は、自身の心の傾向ともなっていくものだからだ。
特に繰り返し意識していくことは、確実に自身の心の傾向となっていき、しかも比較的わかる形となって現れることも多い。
「姿勢」を持っていく、すなわち心がけを持っていくことは、自己を鍛錬していくことに直接通ずるものでもある。
私自身は、いまだ不完全であり、未熟であるのだが、そうした姿勢を持ち続けていくこと、また同時にそうした姿勢を伝えていくことが大切であると信じている。
だからこそ、日々の瞑想が深まっていくのであろうし、それこそが道を歩むということに他ならないからである。
私は、このように固く信じている。
(『どこまで深められているのか?』)
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