タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2010/04/27

なぜ悟りたい?


なぜ悟りたいの?・・・このように知人から問われたことがある。

苦しいから?悩み事から解放されたいから?

もちろんそんな思いもあるとは思うが、なんとなくしっくりこない。

世の中の心理が知りたい。これも外れてはいないが、しっくりこない。

なぜしっくりこないのか・・・なぜ?と問われて頭で考えた答えだからだろうか?


なぜ悟りたい?


それは『仏教の悟り』というものにひかれるから。仏教にひかれるから。

ただ単に、仏教にひかれるから。なぜだかひきつけられるから。

感覚というか、フィーリングというか、なぜかわからないが仏教が魅力に感じるからだ。

さらに言えば、文献の中で出会った数々の仏教に生きた人々のその姿になんとなく魅力を感じたからだ。


もうひとつ。


仏教は、当たり前のことを言っているから。

人は老いる。人は病気になる。人は死に、ものは壊れる。

これは、誰にも否定することはできないし、今も昔も決して変わることのない事実である。

人々は、これらのことではるか昔より苦しんできたのではないか。

この苦しみはどんなに時代が変わろうとも、少しも変わってはいない。

これらの苦しみを超えることが仏教の目的とするところである。


仏教は、とても現実的だと思う。

信じがたいことを無条件に信じろと言っているのではないところが、他の宗教にはない魅力だ。

深く知れば知るほど科学的だともいえるし、合理的だともいえる、否定ができないところに行きつく。

わかっちゃいるけどいるけどやめられない・・・わっかっちゃいるけどなかなかそうはできないのも仏教。

理屈ではない、体得するものだからだろうか。

できそうでできない、またそこが私をひきつけるのか?


『いつでも』『どこでも』『だれにでも』歩むことができる道、それが仏教のはず。

私にだって必ず歩むことができる道のはず・・・

私も必ず悟りに行きつくことができる道のはず・・・


私は、仏教の悟りというものに強くひきつけられた。



(『なぜ悟りたい?』)



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