タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/05/09

仏教の瞑想とヨーガの瞑想


近年の“瞑想ブーム”によって、『瞑想』というものは、ごく一部の特殊な人間だけが実践するものであるという認識は薄れ、より一般的なものへと変わりつつある。


瞑想実践者の一人としては、大変喜ばしくもあるのだが、その反面、誤解されたり、曲解されたりすることも多いのは問題である。



瞑想は、大きく分けるとすれば、仏教を起源とする瞑想、ヨーガを起源とする瞑想、そのどちらでもない瞑想がある。


明確に認識されていないかもしれないが、実は、同じ『瞑想』を名乗っていたり、『マインドフルネス』を名乗っていたとしても、その瞑想が前提とするところや定義とするところ、目的とするところが大きく異なるのである。



特に瞑想の定義や目的が、仏教の瞑想と大きく異なるのは、ヨーガを起源とする瞑想であろう。


すでにご存知の通り、仏教の瞑想は、心の落ち着きにより、無常・苦・無我を観察していくことを目的としており、確固たる『我』の存在などどこにもないのだということを洞察し、執着から離れていこうとするものである。


それは、言い換えるならば、“無我”だということを確認し、落とし込んでいくのが仏教の瞑想だということである。











ヨーガの瞑想も大変流行しているが、その理論や哲学までを理解し、実践している者は、非常に少ないのではないかと思う。


ごく入口の部分においては、大きな違いではないのかもしれないが、やはり深部に至れば至るほど、紛れもなく思想であり、宗教であると実感することだろう。



そもそも、『ヨーガ』とは、サンスクリット語で「繋がり」や「結びつける」を意味するものである。


その言葉の通り、ヨーガとは、繋がっていくための行法だ。


多くの人が勘違いしていることなのであるが、本来は、ヨーガ自体が『瞑想』なのであって、私たちが一般的に思い浮かべるであろう“ヨガ”は、深い瞑想へと入るための前段階的な瞑想なのである。


すなわち、ヨーガにおいては、身体的な呼吸や姿勢など、全てが『瞑想』に含まれるものであるというわけだ。



それでは、『ヨーガ』という語の意味である「繋がり」とは、一体、何と何とが繋がっていくのであろうか。



単刀直入に言えば、内なる我(真我)と繋がるのだ。



ヨーガを含むインド哲学の分野も非常に深いため、ほんの触り程度に留めておきたいと思うが、インド哲学の諸学派によっても見解や解釈が異なるし、学派の系統によっても差異があるため、さらに複雑だ。


しかし、ひとつ言えることは、ヨーガの瞑想、すなわちインド哲学の諸学派における瞑想は、『我』(有我)を前提としてということである。


ヨーガの言葉が示している通り、ヨーガの瞑想では、繋がる先がなければ瞑想自体が成り立たない。


内なる清浄な存在へと強く繋がっていこうとするのがヨーガの瞑想なのだ。



一方で、『無我』に沿って瞑想し、無常であり、無我であり、苦であるということを観察し、洞察していくのが、仏教の瞑想であるということはすでに触れた。


『私』といったものは、あくまでも仮そめのものであり、ひとつの“概念”である。


我が有るとするのは、あくまでも仮のものであって、ただ一時的に「我」であるようにとらえているだけで、「個」があったり、「我」があったりするものではない。


仏教の瞑想は、特定の何かと強く繋がっていくものではないし、特定の「我」や何かしらの“存在”を想定していくという方向性のものでもない。



この点は、タイの瞑想だけではなく、全ての仏教の瞑想に共通した立場であり、逆をいえば「我」を立てたり、「真我」を想定するような瞑想は、仏教の瞑想からは逸脱しており、すでに仏教の瞑想ではない。











余談ではあるが、「私」(ないしは、確固たる「我」や「個」)の存在を前提とした心理分析や脳科学的観点による分析は、「私」を前提としてその論理の出発点としていることが多い。


その時点で、仏教の瞑想とは立場を異にしているのであって、仏教の瞑想から言えば、同一のものではなく、解釈が間違っていると言わざるを得ない。


心理分析や脳科学的観点による瞑想の分析は、“瞑想”の分析ではあり得たとしても、仏教の瞑想の説明や解説には断じてなり得るものではないということをはっきりと述べておこう。


そもそもが、目指しているところが違うし、目的自体が全く違う。


すでに立場を異にする瞑想であり、違う種類の瞑想であると認識したうえで、それらと触れていくようにするべきだろう。



タイであれば、「仏教」という思想的・宗教的基盤というか、大前提となるものがあるので、大きく踏み外すことはないのであるが、日本にはそうした思想的・宗教的基盤が一切ないというのが問題である。


また、タイであれば、お寺や僧侶など、正しく瞑想を指導できる者がごく身近にいて、いつでも指導を受けることができる。


そうした“場”が生活の中にあるという環境の差もあるだろう。



日本は、こうした心の拠り所となる“場”がなく、環境に恵まれているとは言い難い。


これは、不幸だとしか言いようがないと思う。



最後になるが、もっとも、そこまで深く瞑想を理解したうえでの実践を志す者はごく僅かなのではなかろうか。


あるいは、深く瞑想を理解したうえで実践したいという求め自体があるのかどうかさえも些か疑問だろう。


一定の実利さえ得ることができれば、何でもよいとする実利主義的な風潮が日本全体を覆ってしまっているのが現状で、そもそも、このような問題など、ほんの「些細な問題」だと片付けられてしまうのが現状だ。



どの種の瞑想も、全てが同じ瞑想であると十把一絡げに捉えられており、理解されているというのが日本の瞑想の現状なのではないかと私は感じている。


瞑想の流行は、大変喜ばしいことではあるが、非常に混沌とした状況に陥ってしまうのは、仏教の瞑想にとっても、ヨーガの瞑想にとっても、不幸でしかなく、大変残念なことだと思う。




(『仏教の瞑想とヨーガの瞑想』)






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