タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/05/19

お前はもう修行者なんかじゃない


唐突だが・・・自分自身がわからなくなってしまった時、どのように対処するだろうか?


あるいは、どのように自分自身の心を調え、どのように軌道を修正するだろうか?



生きていれば、誰しも、そのような八方塞がりな時というか、迷うような時に出会うのではないかと思う。


少しだけ想像力を働かせていただき、ご自身に問いかけながらお読みいただけたらと思う。



◆私の心は、まだタイにいた◆



私は、還俗(僧侶をやめること)し、タイの修行寺を後にしてからも、ずっと髪を剃り頭を丸めていた。


タイから日本へ帰国する前に、インドへと立ち寄り仏跡巡礼の旅に出た。


ネパールから入り、インド、パキスタン、スリランカ、カンボジア・・・


仏教に関係する国々を巡礼した。


私はその間も、ずっと髪の毛を剃り、頭を丸めていた。



ゆえに、タイでもインドでも、その他の国々でも、ただの一度も床屋へは行ったことがない。


さらに、日本へ帰国し、再び実家での生活が始まってからも、ずっと髪の毛を剃り、頭を丸めていた。


実家の家族からは、髪の毛を剃るのなど、そのような目立つことは即刻やめろと言われたのであるが、やめる気は全くなかった。



三重県にある片田舎の話だ。


少しでも目立つような行為は、タブー中のタブーである。


兎にも角にも、私の家族は、目立つことが大嫌いなのだ。



田舎の生活は、いつもこのような調子で、人の目ばかりを気にしながらの生活だ。



それが私が生まれ育った田舎のいわば『掟』のようなものだ。


またそれが、ある意味での処世術なのである。




それはそうと、なぜそこまで髪の毛を剃ることにこだわっていたであろうか・・・?


実は、全くこだわっていたわけではない。


なんと言っても、手入れが格段に楽だという単純明快な理由からだ。



ただそれだけだった。



髪の毛をセットする必要もなければ、髪の毛が乱れることもない。


手間がかからないうえ、どのような時であっても、髪の毛を一切気にする必要もない。


とにかく楽なのである。


これ以上に楽な髪型が他にあるだろうか?



しかし、振り返ってみると、どうやらそれだけが理由ではなかったようだ。


心のどこかにタイのお寺での生活に後ろ髪を引かれていたのかもしれない。



(髪の毛を剃っているので、後ろ髪などないのであるが・・・)



当時の気持ちを正確かつ適切に説明などできるものではない。


ただ、後ろ髪を引かれる思いでお寺を出て、タイから日本へと帰国して来たことは事実である。


決意を固めて帰国して来たつもりであったが、実は、全くそうではなかった。


まだまだタイにいたかった。


まだまだ十分に納得がいくまで瞑想修行を続けたかった。


そんな思いがあったのだ。



私の身体は、日本へ帰国してきたのであるが、私の心はまだタイにいたのであった。






※この写真は、

ネパールのカトマンドゥ市内にて撮影したもの。

私は、その後もずっと髪を剃り、頭を丸めていた。

ゲストハウスで出会った日本人旅行者に

旅の記念にと撮影していただいた。






◆遥かなる記憶だけが拠りどころの日々◆



修行者になるというのは、大学を卒業して以来の夢であった。


タイの森林僧院の存在を知ってからは、ずっと森林僧院での修行を志してきた。


年単位でタイのことを調べ、コツコツと準備を重ね、やっとの思いでタイで出家することができたのだ。


それほどまでに憧れて、苦労を乗り越えた先に、やっと叶えた夢を簡単に捨て去ることなどできるはずがない。



おそらく・・・自分の中では、決意を固めて帰国したのだと思っていたのであるが、いつまでも、やっと叶えた『夢』の世界を引きずっていたのであろう。



心だけは求道者でありたい、心だけは修行者でありたい。



もしかすると、このような気持ちもあったのかもしれない。


ところが、“そのような”気持ちなど、日本での生活の中で、いつも間にか、いとも簡単に崩れ去った。


まるで、砂で作った楼閣を崩すかの如く、実にあっさりと崩れて去った。


言い換えれば、私は、それだけ深く、心の迷いの中に溺れていたということである。



この周辺の説明を「“迷走”したのです」と言っているのであるが、実際には、そのような生易しいものではない。


迷いに溺れ、欲望に溺れていたのだ。


そればかりではない。


心だけは求道者でありたいなどと、そのような格好良さげなことを考えていたにもかかわらず、瞑想からも離れていったのだ。


実に情けない姿ではないか。


今まで自分がやってきたことに意味を見い出すことすらできなくなってしまったのだ。



そのようななか、私の唯一の拠りどころとなったのが、かつてタイで出家者として、瞑想修行に打ち込んでいた“修行者”だったのだという、すでにカビが生えて埃を被り、古ぼけた色に変わってしまったタイでの“思い出”だった。


ところが、タイでの出家生活を思い出せば思い出すほどに、堕ちるところまで堕ちてしまった自分の姿が情けなくなり、さらに深い闇の中へと堕ちていくのであった。






※写真は、朝の托鉢時に撮影したもの。

私が最も長い期間滞在し、

ひたすら瞑想修行に打ち込んだ

タイ奥地にある森林僧院。

写真好きなタイ人が撮影してくれた。






◆師の助言さえ聞けなかったかもしれない◆



私は、父の介護問題を理由に帰国を決意した。



しかし、それは、単なる“理由”であり、実際には挫折したも同然の状況であると思っている。


ちょうど瞑想上の“壁”にぶち当たった時期とお世話になった師から、日本でしっかりと父親の介護問題を整理してくるように促された時期とが重なり、帰国を決意するに至っただけの話である。


これが仮に、瞑想上の“壁”にぶち当たる時期と、師から帰国を促される時期とが少しでも違っていたとすれば、私は帰国を決意してはいなかったかもしれない。


あるいは、瞑想上の壁にぶち当たっていなかったならば、師の言葉を素直に受け入れてはいなかったであろう。



信頼する大恩ある師の言葉であるのにも関わらず・・・。



タイで得たものなど何にもない。


タイで学んだことなど何にもない。



もしも、タイで何か得たものがあったとするならば、タイまで行っても何ひとつ得られなかったという事実だけだ。



そのようなポッカリと心に穴が開いてしまった状況ゆえに、日本へ帰国してから、今度は、“迷走”する破目になるのは、至極当然の帰結であろう。



私は、帰国後早々に暗く、深い苦悩の底なし沼の中へと堕ちていったのであった。



自分でも何をやっているのだか、また何をやりたいのだかサッパリわかならない。


どこを歩いているのかも、どこへ向かって歩いているのかすらもわからない。


泣きたくても涙を出す気力すらない。



ふと・・・



お前は、もう求道者でも修行者でもない。


どうしようもない、もがき苦しんでいるだたの情けない愚者でしかない。


暗闇の中を彷徨いながら、底なしの泥沼の中でもがいているだたの情けない愚者でしかないのだ!



そのような声がどこかから聞こえて来た気がしたのであった。



そうであった・・・



もう私は、タイにはいないのだ・・・


もう私は、求道者でも、修行者でも何でもないのだ・・・


何を格好をつけた、生意気な言葉を吐いているのであろうか・・・


私は、救いようのない、どうすることもできないただの愚者なのだ・・・



私は、急に・・・髪の毛を剃り、丸坊主で過ごしている自分が恥ずかしくなってきた。


この時から、私は坊主頭でいるのをやめた。



何かが吹っ切れたのかもしれない。


諦めのようなものがついたのかもしれない。


日本の社会の中で、ごく普通の人間として生きていく覚悟を決めた瞬間だったのかもしれない。


苦悩の中へと堕ちていくなかで、泥沼の中でもがき苦しみながら生きていくのだと腹を括った瞬間だったのかもしれない。



・・・それは、私自身にもわからない。



なぜだかわからないのであるが、この時から髪の毛を剃ることをやめたのであった。



◆己を照らし出すものは何か?◆



私には、このような経験がある。


このような状況へと陥ってしまったのには、自己を照らしていく『尺度』をしっかりと持っていなかったからだと感じている。


自己を照らし出してくれる何かがあるのとないのとでは、雲泥の差があるだろう。


己の力ではどうしようもなくなったその時・・・必ず行くべき道、進むべき道を示してくれるはずだ。



過去の記憶など拠り所にしていてはいけない。


過去にとらわれ、過去にこだわっていてはいけない。



今、確かな一歩を踏み出さなないといけないのである。



自分自身がわからなくなった時、どのように対処していくだろうか?


あるいは、どのように自分自身の心を調え、軌道を修正していくであろうか?




(『お前はもう修行者なんかじゃない』)






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