お金について考えるなど、卑しいことであり、醜いことであり、恥ずかしいことであると感じていた。
おそらく真摯なる方々は、少なからず、このように感じられたことがあるのではないだろうか。
しかし、正直に言うならば、瞑想にしろ、仏教の学問にしろ、お金がかかる。
このこともまた、真摯なる実践者の方々は、少なからず感じられたことがあるのではなかろうか。
瞑想を実践していくには、基礎となる仏教の学問もしっかりと身につけておかなければならない。
より高度な学問を修めようとしたり、より瞑想を深めようとするならば、やはり十分な“資金”が必要となる。
学びを深め、瞑想を実践していくことは、経済的には、直接生産を生み出すものではない。
即座に生産を生み出さないものに対して、大量の時間と労力を費やすという行為は、やはり安定した環境と生活そのものに余裕がないと難しい。
それなりの整った環境が必要だということで、自己が生きるための『資金』という意味まで含むと私はとらえている。
生活に余裕があるということは、すなわち精神的余裕があるということであり、あらゆる「余裕」を生み出す基盤となるものである。
精神的にも、物理的にも、条件を整えたうえでなければ、瞑想に専念することは到底できるものではない。
逆説的な表現をするならば、瞑想に専念できる時というのは、自己の生活のことを考えなくてもよい時だとも言える。
すなわち、衣・食・住に関する心配を全くしなくてもいいからこそ、全精神、すなわち生活の全てを瞑想ないしは仏教の学問へと注ぎ込み、全力で研鑽していくことができるのだ。
そのような環境が整ってこそ、大量の時間を瞑想や仏教の学問へと費やしていくことが可能となるのである。
そうした環境を実現しているのが出家の生活であり、サンガという環境なのである。
さて、仏教の根幹たる律には、3つの目的がある。
ひとつは、個人が悟りへと到達するため。
ひとつは、サンガを統率し、維持・統制していくため。
そして、もうひとつは、サンガが社会から認められるため。
出家生活は、社会から認められてこそ初めて成り立つものである。
サンガでの出家生活では、衣・食・住の心配を一切することなしに、その全てを精神的生活へと注ぎ込んだ日々を送っていくことができる。
それだからこそ、瞑想や仏教の学問に専念できるのである。
もしも、サンガが社会から認められた存在ではなくなれば、瞑想や仏教の学問に専念できる環境は整わない。
出家者は精神的生活とは別に仕事を持ち、働かなければならなくなり、瞑想や仏教の学問へと費やす時間が大いに減ってしまい、疎かとなってしまうだろう。
そればかりではない。
社会から不要な存在とされてしまえば、僧院の経済は瞬く間に成り立たなくなり、維持・運営が困難な状態へと陥ってしまうだろう。
世俗の社会を捨てた生活が出家生活であるのに、些か矛盾しているかのようにも感じられるのであるが、実は、出家生活も社会の一部であり、社会に認められたうえで成り立っている“社会”なのである。
つまり、世俗の社会に依存しているのが出家生活なのであり、社会からの承認を無くしては成り立たないのが出家の“社会”なのである。
類稀なる条件の整った環境こそがサンガであり、出家の社会であり、瞑想の生活なのだ。
より深く瞑想し、より高度な仏教の学問を求めようとすれば、必然的に時間と資金が必要となる。
すなわち、環境が整わないと叶わないことだということがよくわかる。
日本において、誰からの支援も受けずに個人で仏法を求めようとするとなると、いかに時間と労力と“資金”が必要になるかという問題は、真摯なる実践者の方であれば、一度はぶつかったことのある壁なのではないかと思う。
さて、これは、出家生活、すなわち僧院生活についてであるが、在家の生活においてはどうであろうか?
在家における瞑想や仏教の学問についても、基本的には同様だろう。
瞑想にしろ、仏教の学問にしろ、お金も時間もかかるということは、真摯な実践者であれば、少なからず感じていることなのではないかということは、すでに触れて来た。
まず、瞑想できるということは、実に条件が整った時間を過ごしているのだということを自覚すべきではないかと思う。
それが、たとえ、1分でも、5分でもあったとしても。
仏教の学問についても同様で、たとえ一文字であったとしても、その教えを目にすることができ、学ぶことができるということは、実にありがたいことなのである。
どれだけ多くの条件が揃い、今、このような機会にめぐり逢っているのだろうか。
そのことに思いを巡らせれば、喜びはごく自然なことであるし、よくも得難いこの時間が得られたものだと思わずにはいらない。
時間がない、お金がないと嘆く声をよく耳にするのだが、嘆くほども希望していることであるならば、今までどれだけの努力を費やしてきたか、自己をよく振り返ってみると良いかもしれない。
全てを投げ捨てて、身を投じてきただろうか。
課題を自分事として直視するところから始まるのだと思う。
問題に気づいたのあれば、必ず問題は紐解いていくことができる。
「どうすればできるのか?」
このように前向きに問いかけてみてはどうであろうか。
問題や課題を先送りせず、正面から向き合っているだろうか。
いかに円満に折り合いをつけていくかは、その本人次第となるのであろうが、本気で考えているのであれば、最善の努力ができるはずであるし、“より”円満に折り合いをつけていくことができるはずである。
嘆く前に、ほんの少しの時間であったとしても、瞑想できる喜び、たとえ一文字であっても仏教の教えを聞くことのできる喜びを受け取っていくべきだと私は思う。
たとえほんの少しの時間であっても、奇跡的に条件が整い、恵まれた瞬間ではないか。
正直なところ、日本は、タイほど仏教を実践し、修学するには、恵まれた環境だとは言い難い。
それは、私自身も痛感しているところではあるのだが、ほんの少しの時間であっても、仏教や瞑想に触れる時間があるということは、実に幸いなことである。
今の自分にできる最大限のことを為していくからこそ、道が開かれてくるのである。
それしか道はない。
・・・日本という環境を嘆いていてもはじまらない。
(『サンガという『瞑想』環境』)
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