私は、父親の介護問題を置いて、タイへと渡り、出家をした。
そして、結局のところ、介護問題が直接的な理由となり、還俗を決意することとなった。
本来であれば、そうした物質的なものや人間関係的なものなどの身辺整理を含めた、心の整理をも全て済ませたうえで出家するのが筋である。
現に、それがために、出家の儀式の際には、「父母の許可を得ているか?」という問いがあるのである。
もっとも、儀式であるから、形式的に文言を覚え、間違うことなく型通りに誦唱することができれば出家は成立する。
しかし、その精神は、仏教サンガの一員となるにあたり、私のような者に対する決意の確認と、身辺整理の確認を行うための口頭試問だ。
多くのタイ人がそうするように、私も安居を過ごした後に還俗することにした。
最後に比丘として過ごした安居中に綴ったメモが今、私の手元にある。
読み返してみると、当時、苦しかった心境がよみがえって来るようで、ついつい胸が苦しくなってくる。
そこには、非常に複雑な心境、そして悲痛とも言える叫びが綴られている。
北タイの小さな森の寺での出家式 私の夢が叶った瞬間だ。 |
《以下は、当時のメモより》
修行の生活に楽しさが感じられなくなってきた。
なかなか進んでいかないというか、うまくいかないことへの苛立ち。
怒りが溢れてくる。
次から次へと溢れてくる。
怒り、不満、妬み・・・
気がつけばいつも心の中は不満でいっぱい。
いつも心は揺れている。
サティし切れない。
心がコントロールができない。
暴れ放題の心の濁流。
心の濁流に飲み込まれては、少し浮かんで、そしてまた飲み込まれていく・・・。
全てが怒りに変わる。
全てが憎悪と嫌悪に変わっていく・・・。
喜びも、感謝も、全てが怒りに変わる・・・。
心の中は怒りと不満の心でいっぱいになる。
還俗とは、なんのかんの言って“敗北宣言”だ。
煩悩への敗北、修行生活への敗北、そして自分自身への敗北だ。
還俗とは敗北宣言だ。
タイで出家は、最高の親孝行。
しかし、日本では、タイでの出家は最高の親不孝。
タイでの出家生活は、素晴らしい。
たとえ、食えなくなってもいいし、そのあたりで、のたれ死んだとしても全く構わない。
そのような気にさえさせてくれるものである。
還俗したくない。
しかし、一方で、欲の赴くままに過ごしたい。
とは言え、もう、感情の中で生きるのは嫌だ。
暴れる感情、反発し合う感情、荒れ狂う感情を前に私は、為す術がない。
ただただじっと“今”を過ごすのみだ・・・
不満な思い、傷つけられたことによる嫌悪感、そして屈辱感。
こみ上げてくる怒り、未来への恐れ、不安、心配・・・
思い通りにいかなかったことへの不満。
ちょっとしたきっかけ、ちょっとした言葉によって、このタイでの3年間の感情が噴き出して来る・・・
あふれる感情、抑え切れない感情の中へと飲み込まれていく・・・。
気持ちを、感情を、心を揺さぶられるのが怖い。
かき乱されるのが怖い。
これからどんな心の揺さぶりが私を襲ってくるのだろうか・・・。
ざっと、メモの中で比較的まとまりのある一文を拾ってみた。
今、読み返してみても、随分と激しく感情と“戦って”いたようだ。
あれほどまで夢にまで見たタイでの出家。
やっとの思いで出家することが叶ったのだ。
葛藤するのは当然だ。
おだやかに過ぎ去っていった瞑想の日々。
ところが、心は日に日におだやかではなくなっていった。
メモの記録を見ると「9月」とある。
還俗を決意したのち、最後の安居を過ごし、いよいよその安居も半ばを過ぎようとしていた時期の記述である。
ご存知の通り、瞑想では、こうした感情をひとつひとつサティしていく。
徹底して客観的な姿勢を貫き、観察していくことに徹する。
瞑想とは、非常に冷徹だ。
その葛藤の姿が綴られている。
私の至らなさを晒すようで大変恥ずかしいのだが、この心の葛藤から、どのようなことをお感じになるであろうか。
言ってみれば、人生など、こうした葛藤の連続ではないか。
今ならば、そのように自分に対して声をかけるのかもしれない。
(『最後に過ごした安居にて~還俗を前にして~』)
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