タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2020/04/19

何かになろうとしないこと



修行をしたら、特別な存在になれるのではないだろうか?



修行をしたら、今とは違う何かが得られるのではないだろうか?




そのようなことを考えたことはないだろうか。





修行に憧れて、特別な境地を求めている時期は、とかくそのように考えがちなものだ。




「修行」というと、大層大袈裟な表現であるが、これはどのようなジャンルであっても同じであろうかと思う。


何かになろうという「目標」は大切ではあるが、何かになろうとしているうちは、おそらくまだまだこれからの段階なのではなかろうかと思う。




特別な何かを求めて、得たい、得たい・・・



そう思ってやまないのだけれども、得られない。




瞑想で言えば、ある修行を求めて、是非とも実践してみたいと思う。



もしも、そのある修行を実践することができたならば、きっと問題が解決するに違いない。



だから、その修行を実践したいと思う。





ところが、そのように思えば思うほど実践することができない。


あるいは、願い叶って実践することができたのだけれども、問題を解決することなどできなかった。




そこで味わう苦しみは、どれほど大きなものだろうか。












得たいと思っていたものは得ることができただろうか。


願い叶って得ることができたけれども、果たして期待通りのものであっただろうか。





実際に行ってみたり、実際に体験(実践)すれば、なんだ所詮はこんな程度のものかと感じるものである。




“こんな程度のもの”と表現したが、“そんな程度のもの”ということをわかるための修行なのではなかろうかと思う。




憧れや期待を抱いて、特別な何かを求めてしまいがちであるが、結局のところは、特別な何かがあるわけではない。



また、特別な何かが得られるわけでもない。



さらに、何かになるわけでもないのだ。



求めることや、試みること、実践すること自体が悪いというわけではない。



ある何かになれるに違いない、ある何かが得られるに違いない・・・そのような思いにこだわり過ぎることや、執着する気持ち自体がいけないのだ。



何かになろうとし過ぎることで、何も見えなくなってしまうことがいけないのである。




その執着を超えた、その先にあるもの。




何かになろうとするその気持ちを捨てたところに開けるものがあるのだと思う。



身につけて、腑に落として、自分のものとする。



すなわち、心の底から「わかる」ということは、途轍もなく時間がかかるものである。




これは、どのような道を歩もうとも同じであり、また、どのような道を歩もうとも仏道に通ずるものでもある。



(『何かになろうとしないこと』)










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