タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/11/09

全ては縁です



私は、タイで出家し、瞑想修行の生活を3年間送ってきた。



結果的に3年となったのだが、その間には実にさまざまな困難と出会った。



あり得ない事態に陥ったこともあった。



そのような私に対して、お世話になった師は、こう仰った。






「出家をするには、苦労が多いほどいいのですよ。

誰でもお坊さんになることができますけれども、誰でもお坊さんになれるわけではないのですよ。」





誰でもお坊さんになることができるけれども、誰でもお坊さんになれるわけではない・・・それは、一体どういうことなのだろうか?



誰でもなれるけれども、誰でもなれないなんて、全く意味がわからないではないか。







『STILLNESS FLOWING The Life and Teachings of Ajahn Chah』
の挿絵より。





私は、日本で全て話をまとめてからタイへと渡った。



バンコク近郊の街の一角にあるお寺で出家をする予定であった。



ところが、その話が全くの白紙になってしまったのだ。



どうして決まっていた話が突然無くなってしまうのだろうか?



私にもわからない。

何かしらの行き違いなのか、何かしらのトラブルなのか。


想像するしか術はない。


とにかく予定していた私の出家はなくなってしまったのだ。


すでにタイまで来ているにもかかわらず。




ここはタイ。



右も左もわからない。



見知らぬ土地でただ一人放り出されてしまった。



師の言葉は、そんな私の思い通りには行かない状況を嘆いていた時に投げかけられたものだ。


他の日本人は、観光で来た者でさえも簡単に出家している。


どうしてこれ程まで真剣な思いを抱いてタイにまで来た私が出家できないのか。


どうして私に限って、邪魔ばかりが入って、行くところ行くところ、道を阻まれなければならないのか。


どうしてこんなに苦労ばかりで、全ての話が消えていくのか。


私は、そのように師に嘆いたのだ。


今でも、思い出しただけで涙が出てくるほどの出来事である。



このような状況にあって、




「出家をするには、苦労が多いほどいいのですよ。

誰でもお坊さんになることができますけれども、誰でもお坊さんになれるわけではないのですよ。」




などと言われたとしても、どうして受け入れることができようか。


苦労が多いほどいいとは、当時の私にとっては到底受け入れられるものではない。


苦労など、少なければ少ないほどいいに決まっている。


スムーズであればあるほどいいに決まっている。


そうではないだろうか?




しかし、そこはよく吟味しなければならない。


今だからこそ言えることではあるが。



これは、「出家」に限らず、どのような仕事、どのような職業、どのような立場であったとしても、全く同じことが言えるのではないだろうか。


簡単に手にしたものは、簡単に捨て去ることができる。


しかし、苦労をして手にしたものほど、大切にし、丁寧にし、知らず知らずのうちに美しく磨きあげているものである。



今、歩んでいる道もまた同じなのではないだろうか。


自らが望んだ道であり、自らが選んだ道であり、自らが覚悟を決めた道だ。



そうであればあるほど、どのような困難であったとしても、立ち向かっていき、決して負けないはずである。



なぜならば、自らが望み、自らが選びとった道だから。


大変な苦労をしてやっとの思いで歩むことのできた道だから。





仏教的に言えば、自身にそれ相応の“縁”が整っていなければ、どれだけ強く望んだとしても、決して実を結ぶことはないということだ。

結果につながるだけの“縁”が整い、揃っていなければならない。


つまり、自らの器が、自らの環境が、行為なり、行動なりが相応に整っていなければならないのである。



仏道に、あるいは人生に「一足飛び」や順番抜かし」は絶対にあり得ない。


他の日本人は、観光で来た者でさえも簡単に出家している、などという考えは、私の思い上がりもいいところだろう。


私の慢心意外の何者でもない。


には見えないだけで、その人には相応の「縁」というものが整っていたのである。


種を蒔いて、すぐに花が咲くということはない。


種を蒔いて、芽が出て、葉っぱが茂って、蕾が現れて、やっと花が咲くという過程を経る。


その過程を身をもって学ぶことこそがすでに実践であり、すでに道なのではないかと私は思う。


それこそが仏道なのだと。



は、そうしたことを教えようとされたのであろうか。


果たして、どのようなお気持ちで私に対してこの言葉を言ったのだろうか。



それは、私にはわかならい。




しかし、これ程までに深い一言だったのだということに今更ながらに気づかされた


結果的に3年となった私の出家生活。


困難の多かった出家であったが、そこには深き学びがあり、仏教の生き方とは何かということを学ばせていただいた。


仏教の生き方とは、何も出家の中にだけあるものではない。



お寺の中にだけあるものでもない。





今ここに、私とともにあるものである。




(『全ては縁です』)





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