タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2024/03/09

日本人瞑想修行者には気をつけろ!?

日本人出家者や日本人瞑想修行者は、基本的に“特長的な”人が多い傾向にある。


“特長的”と書くと些か“変人”のような印象を受けるのであるが、そうではなくて非常にユニークな性格の持ち主であるということで、そこに悪意はない。


何万人に一人の人物だからこそ、突出した偉人にもなるのである。



なぜこのようなことを記すのかと言えば、やはりはじめからそのような姿勢でもって接する方が互いにとって瞑想修行の妨げにならず、またなによりスムーズな人間関係が築けるのではないかと感じるからだ。


日本人同士であるがゆえに、言葉も通じやすいし、心も通じやすい。


この点が実は、盲点で、十分な注意が必要なのだ。



瞑想修行者同士で仲良くなり過ぎても望ましくはないし、逆に瞑想修行者同士で不仲になり過ぎてもやはり望ましくない。


当人同士の関係は、当人同士の問題ではあるが、周囲への影響が及びやすく、他者に迷惑をかけることもあるからだ。


日本人瞑想修行者たちは、良きにしろ悪きにしろ“特長的な”人が多いがゆえに、意気投合すれば極端に仲良くなりがちであるし、意見が合わなかったり性格が合わなかったりすれば、徹底して仲が悪くなってしまう傾向がある。


ここは悪意や嫌味を含む意味で受け取っていただきたくはないところだが、“特長的な人”であるがゆえに、接し方が難しいことがままある。


互いの崇高な哲学を犯してしまいがちになるからだ。



ここはタイだ。


ぜひとも学びの機会を最大限に活かしたい。


仏法を学び、瞑想を実践し、修学するために、はるばる遠くタイまで来ている意味がなくなってしまわないように十二分に注意をしたいところである。



何事も『中道』が肝要だ。



修行者としての情報交換や励まし合いは必要なことであると思うが、つかず離れずの適度な関係を保つ心がけは常に持っておくべきだろう。








日本では、一般的に仏教や宗教に興味を持つ人間は極めて少数だ。


さらに仏教の実践行たる瞑想に興味を持つ人間となると、その少数派のなかでもなお一層少数となる。


その時点で、日本における平均的なタイプの人間からは逸脱しているのだ。


大部分の日本人に浸透している価値観や常識とは、少しばかり次元を異にしているというわけである。



一方で、同じ瞑想修行者であっても、タイ人の場合は、決して“特長的な人”というわけではない。


タイ人にとっては、ごく普通である。


なぜならば、説明するまでもないことであるが、国民の大多数の人たちが仏教というものに価値を置いており、仏教に対する興味や関心を有しているというのがごく平均的な国民のあり方だからだ。


ゆえに、瞑想に関心を寄せる人たちが、褒められるべき素晴らしい行いの人たちだと言われることはあっても、特段珍しい人というわけでも、“特長的な人”というわけでもない、まして“変な人”であるということなどないのである。


これは、男性も、女性も、同じことが言える。



私を含めた日本人瞑想修行者たちは、日本の社会の中で何かしらの理不尽さを感じたというか、何かしらの疑問を感じたからこそ、仏教という価値観に魅力を感じ、瞑想という仏教の実践行たる生き方へと惹かれたのだと思う。


そうでなければ、通常、仏教さらには瞑想というものに関心を抱いてはいないだろう。


だからこそ、今、タイにいるのだ。



日本人一般としては、仏教や瞑想などに興味や関心を抱かないことのほうのが“人並”なのだ。


瞑想修行者という時点で、もう平均的な日本人ではないというわけである。








日本人瞑想修行者同士であっても、意見の合わない人は必ずいる。


それは、お互いが変わり者同士なのであるのだから、努めて大らかに接するほうがよいのではないかということを、タイの地で何人もの日本人出家者や日本人瞑想修行者たちとともにしてきたなかで感じるようになった。


人と接すれば、必ず感情が動く。


それは、何もタイの僧院や瞑想修行場でなくとも、どこにいても同じである。



本来であれば、こうした感情の動きこそサティしていかなければならない。


ところが、感情の動きは、実に荒々しく烈火のごとく激しい。


その激しさを徹底して観察し切ることができるだろうか・・・。



出家しようとも、瞑想修行者であろうとも、何であろうとも、どこにいようとも、人間として生きている以上は人間関係からは逃れることができないのである。


出家の世界と言えども、所詮は社会の中でしかないのであり、また社会の中でしか成り立ち得ないのが出家という世界だ。



人間関係は、どこまで行ってもついてくる。



誰それさんと、誰それさんは、仲が悪い。


だから、彼らと接するときには、気をつけろよ・・・などと耳打ちされたこともある。


タイという異国で出会った日本人だからこそ、互いに切磋琢磨したいと思うのは自然な感情だ。


ところが、あまりにも近づきすぎると、修行の妨げとなる。


仲良くなり過ぎても瞑想は進まないし、不仲になり過ぎても醜いいがみ合いとなるだけで、いずれも心の大きな負担となってしまう。


これは、危険だと思わずにはいられなかった。



どこまでも人間社会は難しいものだと思う。



あくまでも、これは、私の独り言だ。



最後に、念のため、私もそうしたどうしようもない“変な”人間だということを付記しておく。




(『日本人瞑想修行者には気をつけろ!?』)






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