瞑想実践者は、瞑想を志すきっかけとして、何かしらの事前情報を得ていたかと思う。
多くの場合、その情報と同じ体験をしたいと思ったことが実践のきっかけとなているのではないだろうか。
あるいは、何かしらの“特殊な体験”を求めていたのかもしれない。
ところが、その思いがかえって瞑想の邪魔になるということがある。
それは、その思いが強ければ強いほど邪魔になる。
・・・多かれ少なかれ、瞑想実践者であれば、誰もが経験していることがらなのではないだろうか。
そのような特定の心身現象や何らかの“利益”を得たいという気持ち、または具体的な問題や課題を解決したいと願って瞑想に取り組むというのは、瞑想の目的から言えば、外れるものである。
しかし、一方で人間としてのごく自然な感情でもあるのだろう。
私は、瞑想を志す“きっかけ”としては、そういったこともあってよいかと思う。
自身の問題点や課題点を認識しつつ、それらを解決しようと努力していく姿勢は、むしろ必要な事であると思うからだ。
仏教の瞑想では、そうした感情自体を否定しない。
求めてもいいし、得たいと思ってもよい。
ただ、自身のなかにそうした感情があるのだということをしっかりと観察していくことが求められるのであり、ひたすら観察していくことが求められるのだ。
その過程では、何度も何度も「得たい」「つかみたい」という感情が湧き上がり、それらと真正面から向き合っていくことになるだろう。
ただひたすら瞑想を修し、自己の感情を客観的に観察し、洞察していく。
ただただそのように実践していくうちに、いつの間にか「得たい」「つかみたい」という感情から離れていくことができるのだ。
私もまだまだ「得たい」「つかみたい」という感情から離れ切った境地にまで至ってはいない。
それは、簡単ではないし、とても辛い作業だ。
だが、そこが瞑想修行上のひとつのハードルなのではないかと私は思う。
仏教の論書の中にも、瞑想指導書の中にも、この段階ではこういった現象が起きる、などといった記述が確かに存在する。
ゆえに、私の中においてもそうした現象が起きて欲しいと願う気持ちが確かにあるのだ。
瞑想がうまく進まないと感じるのは、自身が得たいと思った境地が得られなかったからに他ならない。
しかし、いくら記述があるからと言っても、あくまでもそれが瞑想の目的であるのではない。
そこは決して読み誤ってはならないところだ。
「得たい」「つかみたい」と願う気持ちは、人間としてのごく自然な感情であるかと思う。
たとえ、それらが得られたとしても、得られなかったとしても、そのようなことには関心を示さずに、ただひたすらに修していくべきだ。
心は、相応にしっかりと育っているし、相応の功徳も積んでいることだろう。
得たいと思うものが得られない苦しみを越えていくことは、辛いことなのかもしれないが、諦めることなくただひたすらに実践し続けていくのみだと思う。
そこをひとつ越えることができれば、まずは瞑想を長く継続できるだろうし、得たいと思う気持ちも越えていけるのではないか。
このブログが少しでも瞑想実践の励みとなることができれば嬉しく思う。
ここを越えられるのか、越えられないのか。
瞑想を継続できるのか、できないのか。
・・・ここがひとつのハードルだ。
(『ひとつのハードル』)
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