何らかの“きっかけ”に触れることによって、突然、感情が噴き出してくることがある。
良きにしろ、悪きにしろ・・・。
感情というものは、どのようなことをきっかけにして湧き上がってくるのかわからない。
だからこそ、いつ、何が来ても、動じないよう、日頃から準備を整えておかなければならない。
タイの多くの寺院では、それぞれ托鉢の時間がだいたい決まっている。
托鉢のコースは、自分たちで決めることが多いのだが、毎日、同じ時間に同じコースをまわるというのが一般的だ。
食べ物をお布施する町や村の人たちの側も、毎日、ほぼ同じ顔ぶれである。
いつもの場所に、いつもの人がいる。
言葉こそ交わさないが、“無言の顔見知り”であることも多い。
私がバンコクに滞在していた時のこと。
毎朝、歩いていた托鉢のコースで、いつしか私が托鉢に来るのを待っていてくれる人ができた。
バンコクのとある下町の、とある雑貨屋さんだ。
家族ぐるみで私のことをとても慕ってくれた。
慕ってくれたと言っても、托鉢中である。
“無言の顔見知り”だ。
私が読誦する短い祝福のお経をとても美しい笑顔で受けてくださるのであった。
いつもたくさんの食べ物を家族全員でお布施してくれる。
ご先祖様だろうか、亡くなった家族の誰かなのだろうか。
時々、お布施の品物の間に、たくさんの名前が書かれた紙きれがはさまれていることがあった。
(タイでは、お布施をすることによって得た「徳」を親しい人に送ることができると考えられており、こうして亡き人の名前を書いて徳を送るということがある。
日本の追善供養に近い。)
いつしか立ち去る前に話しかけられるようになり、一言二言の言葉を交わすようになった。
(本来であれば、托鉢中に言葉を交わすことは、望ましくはないのだが・・・。)
(本来であれば、托鉢中に言葉を交わすことは、望ましくはないのだが・・・。)
「いっきゅうさん(一休さん)」というニックネームまでつけてくれた。
私のほうも、朝の心温まるひと時となった。
すると、家族の一人から、バンコク市内のある大きな病院に行っていると告げられた。
すぐに、その病院の病室まで尋ねていった。
どのような間柄の人なのかはわからないが、年老いたおばあさんがベッドに寝ておられた。
母親なのだろうか。
その後も何度かその病院を訪ねた。
・・・ある日、病室を訪ねてみると、いつもと明らかに様子がちがう。
どうやら旅立つ時が近づいているようだ。
私を特に慕ってくれた方が涙ながらに私へ言った。
「何でもいいからお経をあげて。」
「・・・もう、私はお坊さんじゃないですよ。」
「それでも構わないから・・・。」
どんなお経でもいいから、覚えているお経を全部あげてあげればよかったのだ。
・・・しかし、私は、どうしてもお経をあげてあげることができなかった。
私は、もうすでに比丘ではない。
比丘ではないのに、比丘のようにふるまうということに、どうしても抵抗感があったのだ。
比丘でもない私がお経を読むことはできない・・・。
もう、私は、在家の人間だ。
もう、私は、出家者ではない。
もう、私は、衣を着た比丘ではないのだ。
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私は、比丘として生きていたかった。
しかし、もう私は、比丘ではない。
私は、挫折をした俗人だ。
私は、そんな人間なんだ。
そんな人間がお経をあげては、私は罪を犯すことになるのではないか・・・。
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しかも、こんな時には、どんなお経をあげるのが一番いいのかわからない。
いくつもある長いお経を全て諳んじてでもいれば、咄嗟に対応することもできたのかもしれない。
あまりにも突然のこと過ぎて、どうしたらいいのかがわからなかったのだ。
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もしかすると、こんな私の複雑な気持ちは誰にも理解ができないのかもしれない。
さっきまで比丘だった人間が、還俗するや否や、ごく普通に在家者としてのふるまいをする。
逆も然りだ。
つい昨日まで在家者だった人間が、出家の儀式が終わるや否や、立派な比丘の所作。
タイ人のこうした変わり身の早さは、間近で触れた者にしかわからないとは思うが、日本人の感覚からすると驚きに値する。
ついこの間まで比丘だった、仏教と瞑想を学びたい一心でタイまで来て、あれほどまでの艱難辛苦の末にやっと出家が叶った私。
ところが、複雑に絡み合った気持ちにやっとの思いで整理をつけて還俗した私。
まだまだきっぱりと心の整理をつけきれていなかった還俗の末の気持ちが溢れ出したのだろう。
人の死を目の前に、気持ちが動揺してしまったのか、あるいは適切な判断ができなかったのか・・・そこは全く覚えていない。
・・・ただ、複雑な気持ちがあふれ出してきたということだけは確かなことだ。
しかし、何とかしてあげたい。
いや、なんとかしてあげなければならない。
とっさに思いついたのが、「お守り」を買ってくるということだった。
タイ人のお守りに対する思いは、日本人のそれとは大きく異なる。
ブッダの力・・・ブッダの力が宿るとされるお守りを渡せば、きっと心も安らぐに違いない。
「近くのお寺でお守りを持ってくるから、ほんの少しだけ待っていて!」
何も言わず、静かに「うん」と頷いてくれた。
近くにお守りがありそうな大きな寺院へお守りを探しにすぐさま走った。
道中のことは覚えていない。
距離は、かなりあったように記憶しているだけだ。
必死で病院から一番近くにあるお守りがありそうな大きな寺院へと走り、どうにかお守りを買って、再び、急いで病室へと戻った。
しかし・・・
間に合わなかったようだ。
・・・その雰囲気から・・・尋ねるまでもなかった。
私を目にするや否や、涙を拭きながら私に話した。
「命が尽きたわ。」
なんとも申し訳のない気持ちでいっぱいになった。
買ってきたお守りを息を引き取ったおばあさんの胸の上にそっとおいてあげた。
同じお守りを、その人にも渡してあげた。
何とも重たい空気がながれていた。
この後は、親しい間柄である家族だけの時間で、私がいるべきではないと思い、挨拶をして静かに病室を後にした。
上座仏教では、中陰(中有)を立てない。
死ぬとすぐにどこかへ生まれ変わるということになっている。
死ぬ間際の感情が次の生に強く影響を及ぼすとされている。
お経を聴いて、祝福されれば、たとえ昏睡状態であったとしても、気持ちは相当安らいだであろうに・・・。
より良きところへ生まれ変わることができたかもしれない。
今思えば、私は頭が堅すぎたとしか言いようがない。
なんとも機転の利かない愚かな人間だ。
あれだけ、瞑想に励んで、気づきを保ち、心の穏やかさを保つことに努めてきた人間が、いとも簡単に感情に巻き込まれてしまう・・・
なんとも情けない姿ではないか。
もう還俗して俗人となった、そんな私のお経でもいいからと言ってくれているのだ。
だから、知っている限りのお経をあげてあげればよかったのだ。
この時のことばかりは、後悔にも近い思いを持っている。
帰国後、雑貨屋さんの家族へは、一度だけ、日本から手紙を書いた。
返信も返ってきた。
「バンコクでは、今、秋祭りの季節よ。」
(おそらく、秋祭りとは、9月中頃に行われる「中秋節」のことを言うのだろうと思われる。中秋節とは、おもに華僑系のタイ人の間で行われる季節の行事である。)
あのおばあさんは、良きところへ生まれ変わることはできたのだろうか。
托鉢の時に私を慕ってくれた家族のみんなは、今も元気であろうか。
あの時、お経を読むことができなかったのは、心のわだかまりそのものだったのかもしれない。
私自身の選択に整理がついていなかったのだ。
それは、還俗というひとつの出来事に限ったことではない。
何につけても適切な整理を行うには、常に冷静であらねばならない。
自己の姿を客観的に洞察すること。
そのうえで、行動をしていくこと。
今のこの瞬間、瞬間に最善を尽くす。
そして、最善を生きていくこと。
ここまでのことを言えるようになってきたのは、ごく最近のことではあるが、或る病室で出会ったおばあさんの「死」は、そうしたことを教えてくれているのだと思う。
あの時、亡くなったおばあさんへお経をあげてあげることができなかったせめてもの振り向けが、私が今の最善を生きることであると勝手ながら思うことにしている。
私には、そうすることしかできない・・・。
あの時、私の目の前で亡くなったおばあさんが、そしてあの時、私を慕ってくれた家族のみんなが、明るく、穏やかで、幸せでありますように。
(『バンコクの或る病室での出来事』)
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