タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/01/09

なぜそんな修行をするのですか?


最近、とあるところで、このようなやり取りを耳にした。



「なぜ、このような苦しい修行をやるのでしょうか?」



「それは、修行だから。

・・・それが修行だからです。

それ以上のことは何もありません。」



この修行には何の意味があるのだろう。


これは、何のために実践するのだろう。



実際、瞑想の実践に取り組んでいると様々な疑問が生じてくる。


これは、誰もが何らかの形で経験したことがあるのではないかと思う。










なぜそのようにするのかがはっきりすると、そのことに集中し邁進することができ、目的意識もより堅固なものとなる。


そして、ただひたすらその方向へと向かうことができる。



これには、何の意味があって、何のために行うのかということを自分自身がしっかりと理解しておくということは非常に大切なことだ。



一方で、自分自身で意味を問うていくことも大切だ。


「それが修行だから」という言葉のなかには、修行を実践していく過程において、自分自身のなかでその意味をひたすら問うていき、その大切な意味を見い出していくというところにその意義があるだろう。


弟子の器を見極め、進捗状況を見極める。


最初から“答え”を直接明かさずに、教えないというところに師匠(指導者)としての力量があるのではないかと思う。


師の言葉を信じ、何も考えずに、ただひたすらに取り組んでいくということも、確かに意義のあることだ。


その修行者が一度自身の『師』であると決めた人の指導に対して、自己の判断や思いを挟むことをせず、その教えに沿い、その指示や指導に従い、ただひたすらに実践していくという姿勢を教えているのかもしれない。



とても日本らしい美しさを感じるとともに、非常に強く結ばれた師匠と弟子との信頼関係がなければできないことだ感じた。


それもひとつの人の育て方の“かたち”だろう



私の狭い経験の範囲での話ではあるが、タイではそうした日本のような“厳格さ”とは少し違ったものを感じた。



「まぁ、一度、何も考えず、実際にやってごらんなさい。」



という答えはあったとしても、迷ってしまうような答えをいただいたことはないように思う。


瞑想上における指導には全て意味があり、問えば必ず明確な理由を答えてくれる。



もっとも、それは、私にその“理由”を説明しなければならないという『師』の判断があったからだとは思うが・・・つまり、私が明確に理由を説明しなければならない“器”しか持ち合わせていなかったということだ。



私は、タイでたくさんの『師』や『先輩』方からの指導を受けた。


どの方々も一介の外国人にしか過ぎないこの私に対して、非常に丁寧にその意味や意義を説明してくださった。


一人の出家者として、一人の修行者として過ごしたタイ。



疑問に感じた時、意味を見い出せなくなった時、道に迷ってしまった時・・・そんな時、どこへどのように進むべきなのだろうか。


タイでいただいた師からの言葉の中にその示唆があるように思う。


それは、還俗した現在であっても感じていることだ。


出家者としても、在家者としても、どちらの立場であったとしても十分に通用するものだからであろう。



タイも日本も指導の方法に優劣があるとは思わない。


また、どちらがいいというわけでもない。


そんなところも、仏教そのものの違いや環境・条件の違い、タイと日本との違いがあるのかもしれない。



実に面白いものだと、そのようなことを感じたのであった。


心の通じ合った師弟の関係は、厳しさの中に美しいものがある。




(『なぜそんな修行をするのですか?』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
修行というのは、途中で様々な疑問が生じたり、意味があやふやになるってことはままあることかもしれませんね。私は今では、意味があやふやになることはまずないのですが、自分では正しく修行しているつもりが、いつのまにか修行の方向がズレていってしまう危険は今も感じています。
こういうとき、やはり頼りになるのは、指導者の存在ではないかと思います。特にリトリート中は、指導者とのインタビューによって不安なく修行できている感じです。
ミャンマーの瞑想指導者も、疑問に対する回答は明解ですね。同じ瞑想法でも指導者によって指導方法に相違があったりするのですが、皆、自信を持て指導に当たっている印象です。少なくとも、指導者自身が迷っていたりするようなことはないのではないでしょうか。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

指導者の存在は非常に大切ですよね。自分では正しく修行をしているつもりでも、いつのまにか修行の方向性がズレていってしまうということは、誰にでも起こり得ることなので、特に注意が必要だと思っています。私もそうした危険性は常に意識をするようにしています。

私の場合、「先生」とはできる限り連絡を取るように心がけています。瞑想上の報告事項があってもなくても、機会があるごとに連絡をとるようにしています。先生の何気ない言葉のなかには、何らかの教えやヒントがたくさんあり、その都度、自身を省みつつ、先生からの言葉の深みを感じています。

さて、「それが修行だから」という言葉は、実は、とあるテレビ番組で見かけました。それも教えを受ける「弟子」の側の“器”なのかもしれませんが、やっている意味がわからないようなことをひたすら実践するというところに少し疑問を感じ、ふと、タイでの瞑想指導のことと重ね合わせたのです。

私の知る限り、タイでも疑問に対する回答は非常に明解です。記事にも書きました通り、「実際に実践してみてください。」と諭されることはありますが、すぐに“食わず嫌い”だったとわかりますし、指導者の側もそれを見越していますので、きちんとした意味があります。
少なくとも「それが修行だから」といった指導はありませんでしたし、修行とはそういうものだと言う回答では、私はどうも腑に落ちませんね。実践には全て意味や意義、目的があるはずなのですから。もっとも、指導を受ける側がそれで納得しているのであればいいのかもしれませんが。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。