≪ご注意≫
この記事は、佛教の修行に関することを紹介させていただいています。
少々過激と思われる事柄や画像の掲載もありますが、タイという風土の中で、比丘の伝統的な修行法のひとつとして認められているということ、また現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。
佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。
なお、日本において推奨するというものではありません。
◇ ◇ ◇
死体が切り裂かれ、私と同じ人間の内臓を目にする・・・師の時も、また私の時もおおよそ同じ光景だったことだろう。
こうした本物の死体や本物の白骨を目の前にして瞑想するという修行は、誰もが容易に実践できるというものではない。
もちろん、タイにおいては機会にさえ恵まれれば、誰にでも実践ができる修行法ではあるものの、やはりその機会は決して多くはない。
その意味では、私は幸運だったのかもしれない。
師はスリランカの病院で、私はタイの病院で同じ修行法を実践した。
そこまでは、師も私も同じだ。
しかし、師とはその深さが全く違った。
また、心の“下地”も私とは全く違うものであった。
そして、臨む姿勢も、瞑想の深さも、全てが違った。
私は、師の話を聞けば聞くほど、自身の未熟さを恥じずにはいられなくなった。
・・・私は、浅かった。
深く瞑想できていない、十分に吟味できていない。
全くもって不徹底であり、全くもって未熟だった。
話を聴けば聴くほどに恥ずかしい。
それは、ただ単に“体験”をしてきただけに過ぎない。
ものごとの見方が変わり、心の底から「慈悲」というものが湧き上がって来たという師の体験は、「道」というものへの確信をより固めるものであったと言えよう。
ものごとの見方が変わり、心の底から「慈悲」というものが湧き上がって来たという師の体験は、「道」というものへの確信をより固めるものであったと言えよう。
この「道への確信」を土台として、この身体の全ては不浄なるものの集まりであると観察し、ありのままの姿をありのままに知ることによって、心の静けさを得ていくのだ。
思い込みを捨て去り、あらゆるものへの執着から離れることができたその時、心の波は静まり、静寂そのものとなるのだろう。
私は、“本当の意味”での慈悲の心というものは湧いたことがない。
無常を知り、人間の本当の姿というものを心の底に落とし込めた訳でもない。
この世の中は無常だということをわかってはいても、どうしても手放したくなくて、これでもかという程まで握りしめて、消え去っていくことに対してもがき苦しんでいる。
道行く女性を見ては、その姿に腐りゆく死体や白骨を観るのでもなく、人間の本当の姿を見抜くのでもなく・・・美しく綺麗で、自分のものにしたいとさえ考え、抱きたいとまで考える愚かな私の姿がここにあるのだ。
不浄観を実践すれば、悟りに近づけるかもしれないという期待感も、燃え盛る炎の如き性欲もきれいさっぱりと無くすことができるかもしれないという期待感も・・・
そして、もしかすると私のような煩悩の塊のような者であっても、悟りを開いて静寂なる境地へと至ることができるかもしれないという期待感も、その全てがいとも簡単に崩れ去った。
私にとって、この不浄観の実践は一体何だったのだろう。
それは、単なる「事実を知った」ということだ。
ただ単に、“単なる”「知識」としてだけ“知った”に過ぎないということだ。
しかも、極めて表面的な他人事のような事実として。
自分自身のことであるにも関わらず・・・。
ただ厳然たる事実が目の前に示されただけ。
ただただ事実を私の目の前に見せられただけ。
単なるありのままの姿が、そのままに示されただけに過ぎない。
それは、単なる「事実を知った」ということだ。
ただ単に、“単なる”「知識」としてだけ“知った”に過ぎないということだ。
しかも、極めて表面的な他人事のような事実として。
自分自身のことであるにも関わらず・・・。
ただ厳然たる事実が目の前に示されただけ。
ただただ事実を私の目の前に見せられただけ。
単なるありのままの姿が、そのままに示されただけに過ぎない。
どうしてわざわざ死体を観察し、腐りゆく様子を観察しなければならないのか。
それは、わが身とは“そのようなもの”だということを知らしめるためなのではなかろうかと思う。
そうまでしなければ事実だと知ることができないからなのではなかろうか・・・私はそのように思う。
ところが、そこまでされても自分“だけ”は違うのだと思い込んでしまうその愚かさ。
それをもまた見せつけるためなのだろうとも思う。
さらにそれでも、人の身体は美しいものであると思い込み、服装や装飾、髪型や容姿などといったごく表面的なものや極めて外面的なものに心が奪われてしまうのだ。
なにも敢えて不浄観などといった修行を実践する必要はないように思う。
私は、単にその機会に恵まれただけだ。
修したからと言って、何ひとつ変わるものではない。
肝要なのは、死体や白骨を見ることにあるのではない。
「自身のこととして」ひたすら吟味しながら、私の身体もまた同じであると繰り返し観察していくことにある。
「自身のこととして」ひたすら吟味しながら、私の身体もまた同じであると繰り返し観察していくことにある。
そして、繰り返し事象の無常を観察していくことへとつなげていくことにあるかと思う。
それは、日々の瞑想実践と全く同じことである。
どんなに小さな形であったとしても続けていることが大切だと思う。
どんなに小さなことでも歩みを止めないこと。
道を捨て去ってしまわないことだ。
どんなに小さなことでも歩みを止めないこと。
道を捨て去ってしまわないことだ。
たった一度の実践でわかろうはずなどないのだ。
さて、愚かなる私はこれから一体どう生きていくべきなのだろうか・・・。
やはり、この厳然たる事実を腑に落とすしかない。
なぜならば、事実だから。
なぜならば、避けることができないから。
・・・しかし、どこまでも行っても他人事にしか思えない自分がいるのもまた事実。
私にはできないとバッサリ切り捨ててしまいたいところだ。
だが、この私にも必ず「死」というものがやって来る。
いつか必ずこの事実に直面する時がやって来るのだ。
認めざるを得なくなる時がやって来るのだ。
必ず無常の風は吹くのだ。
必ず無常の風は吹くのだ。
ただその時のことの思うしかないのかと思う・・・
「わかっちゃいるけど、やめられない。」
この歌詞もなかなか鋭いところを突いているなあとしみじみと感じる。
この歌詞もなかなか鋭いところを突いているなあとしみじみと感じる。
愚かな私の中で心のせめぎ合いが続く。
不浄観についての後日談・結
(『不浄観についての後日談・その参』)
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2 件のコメント:
ブログ拝見しました。
「死体を観察して不浄観を実践」という貴重な体験、興味深く読ませて頂きました。私自身は、不浄観というのは実践したことはありません。
まだ瞑想をはじめる以前、バンコクのシリラート病院にある「解剖学博物館」(当時はまだ医学部の単なる標本展示室でしたが)で、切り刻まれた死体や各種臓器標本などを何回か見学に行ったことがありますが、特に不気味とも思わず、自分もこれと同じなんだなと複雑な気持ちで見学していたことを覚えています。
私が死体を前にして不浄観する機会があれば、どんな体験ができるのかと考えてしまいました。たぶん、ある程度の禅定力や波羅蜜が無いと、伊藤さんの師匠のような深い体験はできないかもしれません。私にとってもただの「経験」になってしまいそうです。
アチャンチャーの本の中だったか、「瞑想に結果を求めてはいけない。過去からの業など修行者の波羅蜜によって進む人もいたり、なかなか前進しない人もいる。来世で結果が現れることもある。」というようなことが書いてあったと思います。不浄観に限らず、瞑想修行は、結果を焦らずに、粛々と、ただ真剣に修習していくことなんだろうと思います。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
バンコクのシリラート病院にある博物館、私も見学に行きました。私も同じく、特に気持ちが悪いだとか不気味だとかいった気持ちは全くなく、かと言って私自身も目の前の標本の中にある臓器と同じなのだとも観ずることもできず・・・少々複雑な気持ちで見学したことを思い出しました。
さて、まさに私もおっしゃる通りであると思います。どうしても、瞑想を実践することに対する「結果」を求めてしまいがちです。この「瞑想」への“期待感”というものが少々「くせ者」なので注意が必要であるかと思います。
期待感に負けてしまって前進できないままでいるのか、それともその期待感をも観察してひたすら修習していくことができるのか・・・。まさに“そこ”なのではないかと私は思っています。
本当におっしゃる通り、瞑想修行は結果を求めず、焦らず、ただただ真剣に実践し、修習していくことこそが大切なのだと思います。ひたすら“観察”していく・・・この一言に尽きるのではないかと思いますね。
コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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