≪ご注意≫
この記事は、佛教の修行に関することを紹介させていただいています。
少々過激と思われる事柄や画像の掲載もありますが、タイという風土の中で、比丘の伝統的な修行法のひとつとして認められているということ、また現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。
佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。
なお、日本において推奨するというものではありません。
私は、一瞬、私の目の前で若かりし頃の師の姿を見ているかのような錯覚に陥った。
そして、おそらくは若かりし頃の師が目にしたであろう情景を想い浮かべたのであった。
師は、静かに私へ語り始めた。
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死体を見た時はね、はじめは“ギョッ”としましたよ。
でも、そのうちにね・・・慣れてしまうんです。
何も感じなくなる。
でも、しばらくするとね・・・若くて、綺麗な女性の死体が、とても手際よく切り刻まれていったんです。
頭が開かれて・・・
腹が割かれて・・・
そしてね、ろっ骨が一本、また一本と折られていくんですよ。
ろっ骨を折らないと、内臓が採り出せないからね。
するとね・・・
内臓があらわになってきたんです。
臓器やねえ。
それまでは、それ程でもなかった“臭い”が、解剖が「腸」へと至った時、激しく悪臭を放ち始めたんです。
まさに「大便」の臭いかな・・・なんとも表現のしようがない悪臭が私の鼻をついてくるんです。
またねえ、死亡してから2、3日経過した後の死体というは、特に臭いが凄まじいんやね。
つい先程まで、ほんのつい先程まで、美しいと思っていたはずの女性が、私のすぐ目の前で単なる“もの”へと変わり果ててしまっている・・・。
しかも、若くて綺麗だったはずの女性が、なんとも表現のしようがない程の悪臭を放っている、私の鼻を激しく突いてくるような大便の臭いを放っているんですよ・・・。
ただただ、解剖された身体の器官がそこにあって、臓器のひとつひとつがそこにある。
そして、ただただ悪臭を放っているだけの姿がそこにあるんです。
そして、ただただ悪臭を放っているだけの姿がそこにあるんです。
それでね、目の前に横たわっている、解剖された死体の頭の様子、腹の様子、身体の器官や臓器の様子のひとつひとつを、自分自身のもの・・・つまり、自分自身の身体そのものと照らし合わせながら「私の身体も、まさにこのようである」と瞑想して、細かく、深く、丁寧に吟味をしていくんです。
「私の身体も、まさにこのようである」
「私の身体も、まさにこのようである」
「私の身体も、まさにこのようである」
そうするとね・・・どこをどう探しても、“私”というものの「実体」は見つからないんだといういうことがわかってくるんです。
・・・その瞬間にね、「私」というものは実体なき身なのだということが「実感」としてスッと腑に落ちたんですね。
今までは、頭の中で解っていただけだったんだね。
「私」なんていうものは、ただ自分勝手に思い描いていたものに過ぎなかったんだっていうことがこの時に“初めて”わかったんですよ。
ただ、自分の勝手な「考え」があるだけなんだ。
ただ、自分の勝手な「迷い」があるだけなんだ。
「考え」も、「迷い」も、全部全部ただただ自分勝手な「思い」であって「妄想」にしか過ぎなかったのだということが初めて腑に落ちたんです。
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師は、この不浄観を修して以降、全ての“もの”、すなわち女性を含めた全ての人間や周囲にある全ての物事を見る目が変わったのだという。
かの人もまたかくの如し。
わが身もまたかくの如し。
綺麗に見えているけれども、本当の姿は違うのだ。
心の底からそのように思えた時・・・実に爽やかで、実に軽やかになったのだという。
そして、抱え込んでいたものを全て手放した時のような、重荷となるものは何もない実に軽やかな気持ちになったのだという。
全てのものが「アニチャ・ドゥッカ・アナター・・・」と、リズミカルに耳元で囁いているかの如く、身体全体に染み込んできたのだそうだ。
アニチャ(無常)・ドゥッカ(苦)・アナター(無我)・・・テーラワーダ仏教においては、非常に重視される事柄で、頻繁に耳にする言葉である。
ところが、このことを身をもって理解し、心の底から腑に落とすことは難しい。
仏教を学んだことのある者にとってはごく基本的な事柄で、とても簡単な事柄であるにも関わらずだ・・・その多くは、ただ単に頭の中で理解をしているだけに過ぎない。
さらに、もうひとつ。
「慈悲」というものを心の底から願えるようになったという。
「慈悲」というものを心の底から願えるようになったという。
これまでの師の「慈悲」は、ごく表面的で、非常に傲慢な慈悲だったのだそうである。
さらさら思ってもいない慈悲の心。
上から見下したかのような慈悲の心。
強引に“慈悲”を願っているだけの慈悲の心。
これらは、全てただ見せかけだけの慈悲の心だ。
これらは、全てただ見せかけだけの慈悲の心だ。
不浄なる身が、今ここに、こうして泣いたり、笑ったりしている。
どこをどう探しても実体なきこの身が、今ここに、こうして動いて、話をしている。
そのように思った時・・・心の底から慈悲の心というものが自然に湧き上がってきたのだという。
師は、このように何十年も昔の自身の体験をまるで昨日の出来事であったかのように、詳しくその当時の気持ちを交えながら語ってくださったのだった。
嗚呼!!
経典に書いてあったことはこういうことだったのか!
嗚呼!!
経典には全て本当のことが書かれていていたんだ!
師は、このように心から実感したという。
そして・・・
もしかすると、私にも悟ることができるのかもしれない!
と、“本気”で思ったんだと話してくださった。
経典に書いてあったことはこういうことだったのか!
嗚呼!!
経典には全て本当のことが書かれていていたんだ!
師は、このように心から実感したという。
そして・・・
もしかすると、私にも悟ることができるのかもしれない!
と、“本気”で思ったんだと話してくださった。
(つづく)
次の記事:
『不浄観についての後日談・その参』
※語り口調の部分は、会話の内容としては記事の通りですが、一言一句このようにお話になったというわけではありません。おおよそこのような内容の会話であったという程度にご理解ください。
(『不浄観についての後日談・その弐』)
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4 件のコメント:
伊藤さんの師匠は、不浄観を深めることによって、無常・苦・無我が腑に落ちたのですね。私は、呼吸瞑想を深めることで三相が腑に落ちればと思っていましたので、そういう手もあるのかと勉強になりました。。
しかし、不浄観を深めるのは、タイで出家でもしないとできなさそうなので、なかなか真似るのはむずかしそうです・・・。
ishii様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
不浄観法は、性的煩悩に対する修行方法として設定されているものですが、実際にはそれほど単純で簡単なものではありません。私がお話をうかがった師は、間違いなく、記事のような境地へと至る“下地”があったからこそ成し得ることができたのだと思います。
たとえ出家をしたとしても、正しく知ることがなければ、心の錯綜状態を静めることはできません。逆に在家にあったとしても、正しく心を整えていく努力を怠らなければ、心の散乱を治めることが可能です。例えば、呼吸瞑想であれば一息一息の中に無常を観じていくことは可能なはずですし、また、不浄を観ずる修行であれば、死体を観察することだけではありません。人を見た時にいつものように自分勝手な意味付けをしながら見たり触れたりするのではなく、ただ単に「毛髪」「体毛」「爪」「歯」「皮膚」としてだけ見ていくようにするといった方法があります。そうすることによって、自分勝手な意味付けを排して、心の安定が実現できます。このような方法であれば、たとえ在家にあったとしても実践が可能です。
しかし、実際に取り組んでみると、それほど容易なものではないということが実感できるかと思います。色付けをして見てしまうんですね。深める深めない、理解できるできないは、たとえ不浄観との縁があったとしても実践者その人のレベルがそこまで達していなければ、単に実践しただけに終わってしまいます。あるいは、その理解に大きな差が生じますし、何度実践したとしても腑に落ちることもありません。大切なのは、今できること、今すべきことを積み重ねていくことであって、日頃から正しく物事を見ていこうとする姿勢を持つことだと思っています。常に磨いていくということですね。そこなくして、突然境地が深まるなどといったことはあり得ないのではないかと私は思っています。それもまた大変難しいことなのですけれどもね。
不浄観法については『テーラワーダ仏教の出家作法』に詳しく解説されていますので、もしご興味がありましたらご参照されるとより理解が深まるかと思います。
コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
不浄観が解説された本の紹介、感謝します。
その瞑想法が、無常・苦・無我がわかる決定打となるかどうかはわかりませんが、とりあえず、お手頃な値段ですし、本屋で探してみます。
ishii様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
“決定打”となる、という期待感自体が危険なものですので、どうぞご注意なさってください。不浄観法は、あくまでも無常・苦・無我を悟るためのひとつの方法にしか過ぎません。しかしながら、正しく学び、正しく知るということは、善き瞑想実践の手助けとなるものですから、ぜひ積極的に行動されることをおすすめ致します。
なお、書籍が書店にない場合は、販売元からインターネットでご購入されるとよいかと思います(送料が加算されるので割高になってしまいますが・・・)。
コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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