タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/12/19

ブッダへの思いと頭陀行者の横顔

私が出家した森の寺では、講堂で瞑想実践を行うことになっていた。

この講堂には、タイで尊敬されている高僧達をはじめ、チェンマイ地方で尊敬されている高僧達の写真が飾られている。

その中に“釈迦の苦行像”の写真が飾られていた。

そう、誰もが知るあの有名な苦行像の写真だ。


特に気に留めることもなく、なんとも思わなかったこの写真であったが、不思議なことに、毎日、瞑想実践に励んでいるうちに、次第に気に留まるようになり、この像に親近感を覚えるようになってきたのであった。

いや、この像に対してではないのかもしれない。
ブッダその人への思慕であり、親近感であったのかもしれない。

言葉ではうまく表現できないが、ともかくブッダその人への思いが溢れて来るのであった。


人間・ブッダ。
一人の修行者・ブッダ。
そして、偉大なる師・ブッダ。


とてもあつかましいことなのかもしれないが、私もブッダが歩んだ道を歩みたい、私もブッダの真似をしたい・・・そんな衝動にかられてくるのであった。


パキスタン・ラホール博物館で購入した絵葉書。
森の寺の講堂に飾られていた苦行像と同じデザインのもの。
この真剣な表情と眼差し、そして真摯な姿勢に私は心惹かれた。
修行者に“真剣さ”と“真摯さ”を伝えんがために、講堂にこの像の写真が飾られているのだろうか・・・。
私は、還俗後、この苦行像の実物とパキスタンで“再会”した。

私が、こんな思いになったということを森の寺のタイ人には話していない。
しかし、そんな思いにさせられたのは私だけではないはずだ・・・と、私は思っている。

なぜ、ここにこの像の写真が飾られているのだろうか。
今さらながらに、住職に尋ねておけばよかったと思う。



森の寺での生活は、忘れられないことばかりだ。

なかでも、頭陀行者と出会ったあの時のことは、深く私の記憶に残っている。


タイでは、十三の頭陀行が伝えられており、自分の意思でそれらを実践することができる。
この頭陀行を実践する者を頭陀行者といい、衣食住に関わる一切の欲を捨て去るための実践を行うのである。

出家をすること自体がその実践にほかならないのであるが、タイでは出家者の中でも特に志す者が頭陀行や遊行へ出ることもある。

煩悩を離れ、衣食住への執着を払い、少欲知足を実践し、ものごとの姿をあるがままに観ることのできる境地へと達するために古くから実践されているものだ。

タイでも、数はそれほど多くはないが、現在でも頭陀行者がいて、脈々と受け継がれているのである。


上座仏教では、下記の13の実践項目を数える。

1、ぼろ布たる糞掃衣のみを着る
2、三衣以外を所持しない
3、托鉢によって得たもののみで生活をする
4、托鉢をする家を選ばない
5、一日に一食しか食べない
6、鉢の中のもののみを食べる
7、午後には食事をしない
8、人里離れた静かなところに住する
9、樹木の下で暮らす
10、屋根や壁のない露地で暮らす
11、墓地で暮らす
12、与えられたもののみで満足する
13、横にならず、座ったまま眠る

大乗仏教では12の実践項目が伝えられており、若干の差異があるようである。
参考までに手元の辞書で調べがついた日本の大乗仏教における頭陀行を紹介しておくことにする。

1、人里離れた静かなところに住する
2、一切を施しもので生活する(乞食による)
3、乞食する家を選ばない
4、一日に一食
5、鉢に得られたもののみで満足し、食べ過ぎない
6、午後は水もとらない
7、ぼろ布を着る
8、三衣のみを所有物とする
9、墓地や死体捨て場に住する
10、樹下で寝る
11、空き地(露地)に座す
12、常に座し、横ならない

※1、宇井伯壽監修『佛教辞典』 509頁 【十二頭陀】を参照。

※2、十三の頭陀行について/参考文献

(1)西澤卓美著『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス 日本人比丘が見た、ミャンマーの日常と信仰』 サンガ 2014年 144頁
(2)石井米雄監修『ブッダ 大いなる旅路 2 篤き信仰の風景 南伝仏教』 NHK出版 1998年 145頁


タイにおける森の寺は、これらの実践項目に近い生活スタイルを目指したものだといえる。


森の寺でのある日の出来事・・・


日が暮れかかった頃、境内の掃除をしていると、見知らぬ一人の旅の比丘が寺に入ってきた。

聞けば、一晩泊めてほしいとのこと。

住職に話を通したところ、許可が出た。

私も早々に掃除を終え、その旅の比丘と住職とともに一息ついた。

その後、住職の厚意で、寺の境内の一角にある小屋を用意され、私がその比丘を案内した。


翌朝、私は、寺の托鉢の時間になったので、声をかけに行った。

しかし、すでに姿はなかった。

昨日の夕刻に私が持って行ったコップと水だけが、私が持って行った時のままの状態で置かれていた。

手はつけられていないようだ。

どうやらそこには泊らなかったようである。

その旅の比丘は、あえて小屋の中には泊らず、雨、風をしのげるだけの小屋の軒先で夜を過ごしたのであろう。


寺の境内へ入ってきた時のその旅の比丘の顔を今でもはっきりと覚えている。

彼の顔のなんとすがすがしいこと。
とてつもなく澄み切ったきれいな顔。

彼のその軽く穏やかな表情は、非常に印象的であった。

今でも思い出せる。

人の心は顔に現れる。
怒っているときは怒っている顔になる。
悲しいときは悲しい顔になる。
悩んでいるときは悩んでいる顔になる。
苦しんでいるときは苦しんでいる顔になる。

人の心は顔に現れる。

感情が顔に出ないのは、よほどのポーカーフェイスな人間か、プロの詐欺師ぐらいであると私は思っている。


この旅の比丘は、なぜここまで自分を律した頭陀行を行うのだろうか・・・。
人間の性(さが)から少しでも離れたいが故に、自ら頭陀行に出たのであろうか。


守るべきを持たない身軽さ。
すべてを捨て去り、すべてを他人からの施しに委ねたその命。

守るべきを持つことによって、どれだけ必死にそれらを守らねばならないことか。
守るべきを持つことによって、必死に守ることによって、また必死に守ろうとすることによって、いかに多くの悩み・苦しみを作り出していることか。

ほかならない、悩みとは自分自身で作り出しているのではないか。

彼には、その重みから解放された心地よさがあるのかもしれない。

たとえひと時であったとしても。

守るべきをつくり、悩みをつくり、つぶされながら生きる・・・それが人間の性(さが)なのだろうか。


この離れがたき人間の性(さが)が私の中にもある・・・。



・・・あの時出会った比丘が本当に頭陀行者だったのかどうかは、実のところはわからない。

あれは、「頭陀行者だ」と一緒にいた比丘仲間から聞かされたからそう思っているだけだ。
もしかすると、単なる旅の比丘だったのかもしれない。

しかし、泊った形跡のない小屋から思うに、やはり頭陀行者だったのだろう。


森の寺での生活に比べると、日本での日常生活は、実に華やかで、実に豊かな暮らしである。

そこから見れば、かの比丘の頭陀行は、やはり苦行にしか思えないのだろうが、私は苦行ではないように思う。

あの実に軽やかで、実に爽快で、実に晴々としたかの比丘の横顔からは、どうしても苦行などには思えないのだ。


そうせずにはいられないから頭陀に出たのであろうか。
それとも、ブッダへの篤い思慕の念からなのだろうか。

それは私にはわからない。


日本での日常・・・“生活”と“人ごみ”に流される日々。

そんな毎日の生活の中で、森の寺での日々を思った時に、ほんの少しだけ心が軽くなることがある。


あの時の頭陀行者だった比丘は、今も比丘として生きているのだろうか。
それとも、還俗をして、どこかで穏やかに暮らしているのだろうか。

それも私にはわからない。


ひとつだけ私にわかるかもしれないと感じたことは、あの時の頭陀行者だった比丘の心は、少しだけ軽くなったのではないだろうかということだ。

もっとも、私などには思い及ばないことであるし、単に私の想像にしか過ぎないことではあるが。


私が出家中に頭陀を修する機会にはついに巡り会うことがかなわなかったが、もし機会があったのならば迷わず行っていただろうと思う。


ブッダは、修行してきた無数の生涯の間で、たった9回だけ比丘出家の生涯を受けたのだという。
これは、いかに比丘になることが得難いことであるのかということを示している。(※3)


一生のうちで、比丘として過ごすことができることは幸いであると思う。

さらに、一生のうちで、少しでも森の寺で過ごしたり、こうした頭陀行を経験できるということは幸いであると思う。

それは、その後の人生の宝物となるであろうし、善ききっかけとなるであろうことは間違いないのだから。



※2011年5月1日掲載の記事『頭陀行者』を引用し、加筆・訂正・編集を加えたものです。



【参考文献】

○宇井伯壽 監修 『佛教辞典』 大東出版社 1993年

○西澤卓美 著 『仏教先進国 ミャンマーのマインドフルネス 日本人比丘が見た、ミャンマーの日常と信仰』 サンガ 2014年

○石井米雄 監修 『ブッダ 大いなる旅路 2 篤き信仰の風景 南伝仏教』 NHK出版 1998年

○ウ・ウェープッラ 著 『南方上座部 仏教儀式集』 中山書房仏書林 1986年



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(『ブッダへの思いと頭陀行者の横顔』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
森の寺での旅の比丘との出会いは素敵な体験だったようですね。羨ましい限りです。
ミャンマーでもたまに、とてもすがすがしいお顔をした比丘や歩く姿が颯爽として美しい比丘に出会うことがあります。自らの生き方に自信を持っていて、心に何のわだかまりも憂いもない、とても透明感のある感じとでも言うのでしょうか。「人の心は顔に現れる」まさにそうですね。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みくださいましてありがとうございます。
また、コメントをいただきましてありがとうございます。

ミャンマーで旅の比丘に出会われたことがあるのですね。
文字だけではお伝えしづらく、うまく伝わるかどうかを不安に思いながらこの記事を書きました。

そうです、まさに「自らの生き方に自信を持っていて、心に何のわだかまりも憂いもない、とても透明感のある」姿そのものなのです。あの透明感は言葉にはできません。

しかし、日常生活の中では、森の寺での生活を思った時に“ほんの少しだけ心が軽くなる”程度が限界で、あの比丘のようになるのは、なかなか難しいことではありますが、今でも、私もこうありたいものだと思っています。

少しでも“あのような顔”に近づけるよう日々精進しなければと改めて思います。


今後ともよろしくお願いいたします。