タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/04/19

地下鉄サリン事件に思う

先日、地下鉄サリン事件についてのテレビ番組をいくつか見る機会があった。

平成27年3月20日・・・今年は、かの事件からちょうど20年。

報道されている通り、オウムの話題を一度は耳にされた方も多いのではないかと思う。


日本で起きたこの地下鉄サリン事件。

当時のタイにおいても広く知られていたことには驚いた。

タイではよく「アサハラを知っているか?」と問われて、驚くと同時に苦笑した。

さらに、「一体どういう宗教なのか?」ということを質問され、言葉に窮したことを覚えている。

「一体どういう宗教なのか?」という質問が示しているように、日本で起きたかの事件は、タイ人にとっては非常に奇異なものに映ったにちがいない。

タイ人から「アサハラ」の話題を出された時、私は逆に「タイには新興宗教はないのか?」と尋ねたことがあった。

すると、決まって「タイには新興宗教などない。」という答えが返ってきた。

・・・私の目から見れば、タイにも新興宗教はあるのではないかと思うのだが。

日本でいうところの新興宗教のような仏教グループも存在するし、タイには日本の新興宗教がいくつか入っている。

しかしながら、タイ人はそれらが新興宗教であるとは特に見なしていないようだ。

それが仏教国タイであり、“新興宗教を見慣れている”日本とは感覚が違うということである。

それだけに、日本で起きたかの事件は、インパクトが強かったことだろう。


さて、オウムの事件に関連して、別の観点から非常に感ずるところがあったため、今回あえて記事としてまとめてみようと思った。

別の観点とは、「道を求める者」としての観点である。

オウム関連の事件を振り返った番組では、当時の様子を再現しながら放送されていた。

その再現映像の中で、少なからず私に響く場面があったのだ。

信者達の求道という意味では、多少の純粋性があったのではないだろうか・・・。


・・・私はそう感じたのであった。


なぜならば「道を求める者」という観点から、私はどうしても自身の姿と重なる部分を感じざるを得なかったのだ。


ここで、誤解を招かぬようお断りしておきたい。

オウムにおける残忍極まりない行為は、決して許されるべきものではないし、容認できるものではない。

また、肯定するものでもないということをここにはっきりと明言しておきたい。

そのことを前提のうえでお読みいただきたいと思う。


宗教関連の事件が起こるたびに宗教そのもののイメージが悪くなってゆく。

宗教と言えば、胡散臭いもの、危険なもの。

そういった印象があるのではないだろうか。

もちろん私の中にもある。


それが現代の日本における“宗教”というもののイメージだ。


しかし、それらもまた宗教の持つ一面でもあり、ひとつ誤れば非常に危険な方向へ進んでしまうのだということを示している。


また、宗教関連の事件における世間の論調は、おおむね「なぜ、あのような宗教に走るのかが全く理解ができない。」というものだ。

少し角度を変えて見てみたいと思う。

どうして私がここで書こうかと思ったのかというと、「道を求める者」からの視点が全く理解されていないということを感じたことと、「道を求める者の姿勢」や「道を伝える者の姿勢」の大切さを感じたからだ。

私も今日に至るまで道を求める者だ。

すくなくとも私はそう思っている。

ゆえに、事件についてのテレビ番組を見た時、非常に感ずるものがあったわけであり、道を求める者としての私の姿と重なる一面を感じたわけである。


今までには、実にさまざまな人を尋ね、さまざまな場所へ赴いた。

若気のいたりだろうか。

ある宗派のある高名な布教師である僧侶に躊躇することなく質問をしたことがあった。

具体的に何を質問したのかは覚えていない。

布教師の僧侶の回答のほうがはるかにインパクトが強かったからだ。


「あなたの質問には答えられない。
私にはあなたの気持がわからないから。

私は、気がついたら寺に生まれていて、道を求めるという経験をしたことがないからね。」


「私はわからない」と、はっきり明言した点では、非常に正直で真摯な答えだと思う。

嘘いつわりがない。

しかしながら、道を求める者の気持ちがわからないという答えには拍子抜けをした。

ブッダは、求道者ではなかったか。

各宗派の祖師方もまた道を求めた者ではなかったか。

唖然とするしかなかった。


また、別の寺院においても僧侶に質問をしたことがあった。

やはり、回答のほうがインパクトが強かったため、具体的に何を質問したのかは覚えていない。

おそらく教学的な質問と仏教の生き方についての質問だったように思う。


「仏教なんてわからないのが普通なんだ。

私にだってわからない。

悟れるわけなんてないんだよ。

もし、悟れたのなら世の中、仏さんばっかりになってしまう。

わからなくたっていいんだ。普通でいいんだよ。」


これもまたある意味では、非常に人間味のある回答で正直な答えだと思う。

しかし、「わからないのが普通」で「わからなくてもいい」というのでは、私には到底納得することができなかった。

・・・この言葉で救われる人はいるのかもしれないが、すくなくとも私はわからないから求めているのではないか・・・。


みな何かを得たいと思っている。

みな何かを実践したいのだ。

みな何かを変えたいと思っているのだ。

道を求める者はどこへ行ったらよいのだろう。

学校では教えてくれない。

会社でも教えてくれない。


寺へ行ったら教えてくれるのだろうか。

神社へ行ったら教えてくれるのだろうか。

どこへ行っても教えてくれることはない。


しかし、それでも自分で求め、自分で探していくしかない。

そして、自分で解決していくしかないのだ。


オウムの出家信者達の姿は、日本においても強いインパクトを与えるのに十分過ぎる程だろう。

私も、タイで出家をした。

正統な仏教だといえども、私の両親は、どれだけ心配したことだろう。

おそらく私の思いは周囲の者達全員が“全く理解ができなかった”に違いない。


真理を求めたい。

穏やかなる人生を求めたい。


そんな思いでいっぱいであったが、周囲の者達からすればオウムとタイのテーラワーダ仏教、何が違っただろうか。

一日中瞑想する。

一晩中徹夜で瞑想する。

何日も誰とも話さない。

不浄観にいたっては、狂気と言わずに何と言おうか。

そんな瞑想実践も周囲の者達から見れば狂気に映ることだろう。


宗教関連の事件でよく言われる「洗脳」や「マインドコントロール」。

監禁や薬物、機械などを使って強引に行われるものはもちろん言語道断であるが、私はこの論調にも少々疑問を感じる。


師との関係は、はたして単なるマインドコントロールなのだろうか。

師とは信頼関係がまず第一だ。

師の言葉を忠実に実践してこそ自己の成長がある。

何事でも、学ぶとなれば、自分の考えはさておき、師の言う通りに実践してこそである。

指導者に対して疑いの目を向けていたのでは、自己の成長は全くあり得ない。

ゆえに、道を求める者は、自分の師となる人を見極める目を持たなければならないと私は思う。

この師は、信頼のおける師なのかどうか、自分が求める師であるのかどうか。


言っている言葉や人となりを自己の中でよく吟味したうえで、師を選び、信頼しなければならない。

それでこそ自己を磨けるのであり、それでこそ師弟関係と呼べるものになるのではないかと思うのだ。


何でもすぐに鵜呑みにするのではなく、自分の中でよく吟味をして、これならば私は正しいと思うという段階まで吟味に吟味を重ね、受け入れるか受け入れないかの判断をしなければならないのである。

決して妄信であってはならない。

道を求める者は、真剣に師や教えを判断し、選び取ったうえで、師や教えのもとへ全力で飛び込んでいかなければならない。

逆に受け入れる側、すなわち道を伝える側は、全力でその者を受け入れ、全身全霊で伝えていく。

求める側も真剣、伝える側も真剣でなければならない。

このような姿勢が大切なのではないかと私は思う。


はたして、そのような場所に出会うことはできるだろうか。

また、そのような場所に出会うことはできたであろうか。


それは自分にしかわからない。

誰も応えてはくれないし、誰もその方法を教えてはくれない。

自分しかいないのだ。


ゆえに自分自身の目を養わなければならないのだと私は思う。


宗教関連の事件が取り沙汰されるごとに宗教とは「危ない存在」となってしまった感がある。

どうしてそうなってしまったのであろうか。

何が良くて、何が悪いのか。

それを判断する基準が希薄な現代社会が一因なのだろうか。

あるいはまた、それを教えてくれる場所が存在しないということが一因なのだろうか。


私にはわからない。


ともあれ、精神的な方面の道を求める者の多くは、世間の目には触れていないけれども、確実にいるのだということである。

そんな求道者達は、一体どこへ行けばよいというのであろう。

学校や会社には、私の抱く疑問に答えてくれる者はいなかった。

公の場や寺・神社などの伝統的な場にも求めることはできなかった。


・・・そうした場へ求めることができないとすれば、巷へその場を求めていくしかないということになるのだろう。


例えば、カウンセリングの会や瞑想会、あるいは自己啓発セミナーや自己探求セミナーなどといった形となろうか。

あるいは、直接師を探し、直接訪ねるか。

私もこうした集まりに参加をしてきた経験がある。

そこで感じたことは、多くの人達が自己と真剣に向き合おうとしているということだ。

私だけではない。

こんなにたくさんの人が求めているのだ・・・と。

みながそれぞれの思いで、それぞれが抱える問題と向き合い、真剣に解決しようとしているのである。


私は、その解決のヒントが仏法にあると思っている。


このブログがもし、そうした真剣な求道における何かしらヒントとなることができるのであれば、これほど嬉しいことはない。


みなさまは、地下鉄サリン事件に何を思われたのでしょうか・・・。



(『地下鉄サリン事件に思う』)



2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見いたしました。

自分の師と出会うためには、なかなかできないことですが、客観的な判断力を磨き、自ら真摯な姿勢で能動的に探し求めていくしかないのではないかと思います。それでも出会えるかどうかはわかりません。

人によっては、瞑想会や各種セミナーなどで師との出会いがあるかもしれませんし、もしかしたら、近所のおばさんが師であるかもしれません。

かつて坐禅に行った某禅寺で聞いた話ですが、「本物の師や立派な人格者は、市井に埋もれてひっそりと暮らしているものである」と。案外、師は、瞑想指導者や著名人などではなく、極く身近にいるのかもしれません。

そういえば、昨年、ミャンマーの某瞑想センターで出会った日本人比丘が、

「必要なときに、その人が必要とする師が自ずと現れるものである」

と言っていたのが印象的でした。

その人の機根に応じて、そのときにふさわしい師と出会っていくのではないでしょうか。

師は一人だけとは限らず、出会う人々がすべて師なのかもしれません。

こちらの機根が熟していないと、せっかく現れた現前の師を見過ごしてしまうこともあるのでしょう。そのときは縁が無かったということです。

まずは、焦らず、目の前にある現実を一つ一つまじめにこなしていくことが重要なのかもしれません。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

「機が熟す」とはそういうことなのでしょうね。自身がその段階にまで成長していなければ、出会い得ないものなのでしょう。逆に言えば、段階に応じて学ぶべき師がいるとも言えるのかもしれません。
もしかしたら、「邪見の師」と交わり、尊敬し、師事するということがあるかもしれませんが、それはやはりどこまでも自己の「目」以外にあり得ないのだと思います。そういった意味で、客観的な判断力はもちろん、自己の目を磨き、自己を戒め、引き締めなければと強く思う一方で、かの事件は恐ろしくも悲しいものであったと言わざるを得ません。

パーラミー様は、さまざまな出会いをなさっておいでなのですね。とても貴重な出会いをなさっていらっしゃり、尊敬いたします。
私も、かつて訪ねた方にとても深く印象に残っている方がいます。それは、携帯電話の電波も届かない山奥の村のさらに奥にある一軒家に「庵」を構えていらっしゃる僧侶の方です。気さくながらも、決して口数は多くはない。しかし、ここぞというところは“バシッ”と言う。そうした強い筋の通ったお方です。その方も、テーラワーダでの出家経験をお持ちで、私はその生き方に強い衝撃を受けたことがありました。非常に遠方のため、通うことはできず、数回手紙のやり取りをさせていただきました。当時は、若かったこともあり、腑に落ちないことも多々ありましたが、今の私であれば、その方の言葉をどう受け取ることができるのだろうか・・・と、ふと考えることがあります。

そのような方は、やはり市井にはいないのでしょう。いや、市井にいないのではなく、自分が求めるからこそ果たせる出会いなのだと私は思います。また、どんな方であってもひとつでも学ぶべきがあれば師とよぶべきなのでしょう。

おっしゃる通り、ひとつひとつを真摯にこなすことこそが重要だということを改めて肝に銘ずることができたように思います。

貴重なコメントをいただきましてありがとうございました。

今後ともよろしくお願いいたします。