また、実に多くの「刺激」にさらされながら生活を送っている。
・・・これがごくごく普通の日常生活だ。
特に話題にすることでもないし、特筆すべきことがらでもないだろう。
・・・これがごくごく普通の日常生活だ。
特に話題にすることでもないし、特筆すべきことがらでもないだろう。
おそらくは、「もの」に囲まれていたり、「刺激」にさらされていたりするなどということは、全く自覚されていないことがらなのだと思う。
そうした日常生活の中において、全く自覚していないようなことを自覚させてくれて、気づかせてくれる環境。
・・・それが森の寺での生活だ。
「もの」や「刺激」は、知らぬ間に不安や心配を生み、かきたて、大きな妄想へと膨らませていく。
やがて、悩みとなり、苦痛となり、苦悩となっていく・・・。
森の寺での生活は、そんな正体不明の不安の正体を明らかにして、解放させてくれるのである。
私が過ごした森の寺のクティ。還俗の際に思い出にと撮影したもの。 正面が住居の小屋、右側が座る瞑想と歩行瞑想を行うためのスペース。 いつか、日本でもこのような穏やかな日々を体験できる場ができればと思う。 写真から取り込んでいるため、大変見づらいことをお許し願いたい。 |
私がタイでの出家生活の中で本当に良かったと感じたこと。
そして、その良さをお伝えしたいと思っていること。
それは、森の寺での日々である。
森の寺は、何にもない。
それは、一見すると「ひま」でたまらないような生活なのかもしれない。
ところが、こうした時間は、現代人にとって実に貴重なのではないかと思うのである。
もしかすると、一昔前では、日本においてもごく当たり前の世界だったのかもしれない。
現在でも、少し田舎の方へ行けば、そうした生活が可能なのかもしれない。
しかし、テレビや冷蔵庫、洗濯機、携帯電話やパソコンなど、いわゆる生活必需品と呼ばれるものが全くない世界は、どんな田舎といえども、まずあり得ないのではないだろうか。
私は、出家中には携帯電話を持っていなかったし、洗濯機を使って洗濯をしたこともなかった。
むろん、私が出家した森の寺では、洗濯機もテレビもなかったし、パソコンもなかった。
否が応でも、瞑想するしかないという環境だ。
悩みごととは、自分自身で作り出したもの。
“やらなければならないこと”、それは勝手に自分で思い込み、勝手に自分で作っているもの。
毎日やって来る「曜日」でさえも、勝手に約束事として決められているだけに過ぎないものだ。
森の寺での生活、すなわち非常にシンプルなライフスタイルの日々と静寂の空間での日々が、そのように感じさせてくれ、そのようなことに気づかせてくれるのであった。
森の寺という環境の中にいるだけでいい、ただただそうした環境に身を置いているだけで、身にしみてわかることがある。
そして、たくさんの気づきがある。
・・・これが、私のお伝えしたい森の寺の素晴らしさなのである。
さて、少し趣を変えて、森の寺でのエピソードを紹介したいと思う。
森の寺とは、「自然」に囲まれた寺である。
実にさまざまな生きものたちが私の周囲にやって来るのだ。
滞在者に住まいとして割り当てられた小さな小屋(クティ)へは、アリがやって来る。
夜間に、大量のアリが部屋の中へ入って来たことがあった。
これには、非常に悩まされた。
さらに、タイには、毒を持ったアリがいる。
一度、その毒を持つというアリに噛まれたことがあった。
筆舌に尽くしがたいほど、非常に痛かった。
私の場合、“非常に痛い”という程度で済んだのであるが、この毒アリも、一度に複数のアリに噛まれると命に危険が及ぶのだという。
どうやら、噛まれたのが1匹の毒アリだったので助かったようだ。
サソリもいる。
生きたサソリなど日本で見ることはまずない。
トカゲやヤモリと出会うことは日常だ。
タイへ渡航されたことのある人であれば、すでにお馴染みなのかもしれない“トゥッケー”という大ヤモリは頻繁に見かける。
「トゥッケー」、「トゥッケー」・・・と鳴くその声から“トゥッケー”と呼ばれる。
こんな大きなヤモリも決して日本で見かけることはない。
ここは、動物園?・・・つい、そう思ってしまうほどだ。
クティの外には、座る瞑想をするスペースと、歩行瞑想をするスペースとが設けられている。
そこには、クモもいれば、ヘビもいる。
夜間に歩行瞑想をしていた時には、今までに見たことのないような巨大なクモに出会った。
さすがに少し驚いた。
常時、サティを保ち、冷静さを心がけるのが修行だとはいいながらも、突然のヘビの来訪に驚かされたこともある。
思わず逃げた。
ところが、ヘビは意外にも“足”が速い。
ヘビに足はないのだが、とにかく足が速いのだ。
私が恐怖心を抱いたためだったのだろうか。
ヘビ除けの護呪経典があるが、納得だ。
クティへ近くの村で放牧されている牛たちがやって来たこともあった。
外に干してあった衣などの洗濯物を牛たちに踏みつけられて、泥まみれ、糞まみれにされてしまったこともあった。
洗い直すことになったことは言うまでもない。
これこそ、まさに“糞掃衣”だ。
そんな山奥での小さな森の寺での生活だが、少し慣れてこれば、このようなことは全く気にはならなくなる。
安全対策は必要ではあるが、毒を持つような動物たちへも、むやみに近づいたり、こちらが危害を加えなければ特に気にする必要はないし、恐れを抱く必要なども全くない。
私は、嫌になるどころか、むしろ、こうした生活から仏法を学び取り、心に浸み入っていくことがらのほうが多かったと感じている。
洗い直すことになったことは言うまでもない。
これこそ、まさに“糞掃衣”だ。
そんな山奥での小さな森の寺での生活だが、少し慣れてこれば、このようなことは全く気にはならなくなる。
安全対策は必要ではあるが、毒を持つような動物たちへも、むやみに近づいたり、こちらが危害を加えなければ特に気にする必要はないし、恐れを抱く必要なども全くない。
私は、嫌になるどころか、むしろ、こうした生活から仏法を学び取り、心に浸み入っていくことがらのほうが多かったと感じている。
今となっては、善き思い出だ。
さぁ、私は、今、どのように生きるべきなのか・・・試されている気がする。
さぁ、私は、今、どのように生きるべきなのか・・・試されている気がする。
いろいろなエピソードをご紹介させていただいたが、私の出会ったちょっとした日々の出来事として捉えていただきたい。
私がお伝えしたかったは、その昔、こうした環境のなかで、比丘達は瞑想修行に励んでいたのではないだろうかという、そのほんの小さな断片を知ることができたということである。
森に住み、毎日、近くの村や町へと托鉢に出る生活。
穏やかなる日々が続く。
それは、単調で、ひたすら変わらぬ日々の繰り返しなのかもしれない。
しかし、それが今も脈々と受け継がれている“林住”の伝統なのだ。
経典に書かれている通りに展開されるその世界・・・その驚きと感動を忘れることはないと思う。
書物のうえでしか窺い知ることのできなかった世界の中に今、自分がいるという現実。
どこか不思議な感覚に陥ったのだった。
だが、その気持ちの中に没入してしまったり、踊らされてしまってはいけない。
托鉢中であっても、森の中であっても瞑想である。
常に注意深く、自己の状態に気づいていなければならない。
森の寺での生活を単なる感動で終わらせてしまうのか。
あるいは、法の実践とし、自己の人生の糧とするのか。
それは、その人次第である。
何を感じるのかは人それぞれではあるが、日本では決して体験することのできない森の寺での世界を私は一人でも多くの真摯なる方にお伝えしたいと思っている。
森に住み、毎日、近くの村や町へと托鉢に出る生活。
穏やかなる日々が続く。
それは、単調で、ひたすら変わらぬ日々の繰り返しなのかもしれない。
しかし、それが今も脈々と受け継がれている“林住”の伝統なのだ。
経典に書かれている通りに展開されるその世界・・・その驚きと感動を忘れることはないと思う。
書物のうえでしか窺い知ることのできなかった世界の中に今、自分がいるという現実。
どこか不思議な感覚に陥ったのだった。
だが、その気持ちの中に没入してしまったり、踊らされてしまってはいけない。
托鉢中であっても、森の中であっても瞑想である。
常に注意深く、自己の状態に気づいていなければならない。
森の寺での生活を単なる感動で終わらせてしまうのか。
あるいは、法の実践とし、自己の人生の糧とするのか。
それは、その人次第である。
何を感じるのかは人それぞれではあるが、日本では決して体験することのできない森の寺での世界を私は一人でも多くの真摯なる方にお伝えしたいと思っている。
私が出家した森の寺で、タイへ来て初めて迎えた雨安居を過ごした。
その時、ともに過ごした長老比丘から言われた言葉が忘れられない。
「法を実践する者とは、自然を学ぶ者だ。
自然を学ぶ者、それが修行者だ。
だから、あなたも修行者であり、法の実践者だ。」
その長老比丘は、私にこう言って、「ははっ」と微笑し、托鉢へと出た。
私も長老比丘についてともに托鉢へと出た。
雨上がりで霧に包まれた朝のことだった。
世尊の弟子サンガは、よく法に従って修行するものであり、
真っ直ぐに修行するものであり、
真理の道を修行するものであり、
信者の尊敬にふさわしく修行するものであり、
修行によって煩悩が断たれる4段階(※1)の、いずれかにある8種の聖者(※2)である。
この世尊の弟子サンガは、
世間から供養を受けるに値するものであり、
世間に歓待されるべきものであり、
布施されるべきものであり、
合掌されるべきものであり、
世間において比類のない、福徳の増すところなのであります。
※1、4段階・・・四双八輩の4段階。
上座仏教における四向四果の聖者を総称して四双八輩という。
※2、8種の聖者・・・上座仏教における修行の段階である四向四果の4段階、8種類の聖者のこと。
すなわち、預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果の8種類の段階をいう。
「向」とは、果に向かって修行し、未だ果には入っていない段階のこと、「果」とは、「證果」、つまり修行が成就された段階をいう。各段階についての詳細は、ここでは省略する。
(『静寂の空間・森の寺での思い出』)
☆『メールマガジン発行のお知らせ』
毎月1回・無料メールマガジンを配信しています。
ご登録は、下記の登録・解除フォームからお願いいたします。
無料メールマガジンでは、過去のブログ記事の再掲載を中心に、ブログでは公開していないエピソードや情報などをご紹介しています。
その時、ともに過ごした長老比丘から言われた言葉が忘れられない。
「法を実践する者とは、自然を学ぶ者だ。
自然を学ぶ者、それが修行者だ。
だから、あなたも修行者であり、法の実践者だ。」
その長老比丘は、私にこう言って、「ははっ」と微笑し、托鉢へと出た。
私も長老比丘についてともに托鉢へと出た。
雨上がりで霧に包まれた朝のことだった。
~タイで購入した絵葉書より~ 托鉢で歩いた村々の実に穏やかな風景にどことなく似ている。 この絵を眺めていると、あたかも森の寺での日々が甦ってくるようだ。 絵葉書ではあるが、なんとも言えない穏やかな表情と景色が気に入っている。 |
世尊の弟子サンガは、よく法に従って修行するものであり、
真っ直ぐに修行するものであり、
真理の道を修行するものであり、
信者の尊敬にふさわしく修行するものであり、
修行によって煩悩が断たれる4段階(※1)の、いずれかにある8種の聖者(※2)である。
この世尊の弟子サンガは、
世間から供養を受けるに値するものであり、
世間に歓待されるべきものであり、
布施されるべきものであり、
合掌されるべきものであり、
世間において比類のない、福徳の増すところなのであります。
※1、4段階・・・四双八輩の4段階。
上座仏教における四向四果の聖者を総称して四双八輩という。
※2、8種の聖者・・・上座仏教における修行の段階である四向四果の4段階、8種類の聖者のこと。
すなわち、預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果の8種類の段階をいう。
「向」とは、果に向かって修行し、未だ果には入っていない段階のこと、「果」とは、「證果」、つまり修行が成就された段階をいう。各段階についての詳細は、ここでは省略する。
(『静寂の空間・森の寺での思い出』)
☆『メールマガジン発行のお知らせ』
毎月1回・無料メールマガジンを配信しています。
ご登録は、下記の登録・解除フォームからお願いいたします。
無料メールマガジンでは、過去のブログ記事の再掲載を中心に、ブログでは公開していないエピソードや情報などをご紹介しています。
お気軽にお読みいただければ幸いです。
2 件のコメント:
ブログ拝見しました。
タイで良い経験をされたようで、羨ましいです。
森林の中で、必要最小限の暮らしをしながら瞑想修行できるなんて、まさに頭陀行を地でいく生活ですよね。
豊かな自然の営みの中で、自己の内面を見つめる暮らしをしていると、確かに様々な気づきや発見がありそうな気がします。
私がかつて、禅寺に一週間ほど滞在したとき、食べて、出して(トイレ行って)、寝ることができれば生きていけるんだなと思ったことがありました。もちろん、仕事をしたり、家事や娯楽も必要かもしれませんが、結局は、生きるって、食べて出して寝るだけかもと思ったものです。それほど禅寺はシンプルな生活でした。
シンプルなライフスタイルになると、自ずと内面を見つめざるを得なくなるのかもしれませんね。
タイの森林僧院には、悟りを求めて真摯に修行を続ける比丘たちがいると聞いていて、とても興味があります。
いつかはぜひ行ってみたいと思っています。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
おっしゃる通りですね。まさに頭陀行に近い生活が森の寺の生活なのだと思います。
近年、巷では「命の次に大切な携帯電話」などという冗談まじりの言葉が聞かれますが、日常生活の中で生命にかかわるほどの本当に大切なものなど実はごくごくわずかしかないのだということに気づかされました。
欲望にとらわれて生きている普段の生活ですが、ふと、森の寺でのこうした生活を思い出すと、ほんの少しだけですが執着から離れることができる時があります。森の寺での生活の恩恵なのでしょうか。
森の寺の良さは、体験していただければどなたでも必ず得るものがあります。老若男女、瞑想が得意、不得意などは全く関係ありません。ただただその場にいるだけで十分に体感できて、身に浸み入ってくるものがあると思います。
日々の生活も、“できるだけシンプルに”を心がけるといいのかもしれませんね。
なかなか難しいですけれども・・・。
今後ともよろしくお願いいたします。
コメントを投稿