タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/03/26

瞑想修行中の苦悩 ~煩悩の国へ帰るということ~

煩悩の国へ帰る・・・

いよいよ還俗して寺を去る日が近づきつつあるというある日。

お世話になった先輩比丘やその友人比丘達と席をともにする機会があった。
さらに、私を他の寺へ案内してくれたり、彼らの先輩比丘達やその先生達にも会わせてくれたのであった。

心中、様々な思いが交錯している私の心を見透かされたのであろうか。
あるいは、帰国の途につく私へ言葉を送ってくれるためだろうか。
それとも、帰国前の私を気遣ってのことだろうか。

それは、今もわからない。

ただ、そこには彼らのあたたかな気持ちがあったということは伝わってきた。

還俗し、帰国することを決めた私の気持ちを一言で表現することは難しい。

周囲に対しては、病床にある父を看病するために還俗して日本へ帰国するのだと説明していた。
それとて確かに理由のひとつではあるが。

ある長老比丘から言われた。


「いよいよ日本へ帰るんだな。
どうだ還俗する気持ちは?」

「・・・本当は還俗したくはないです。

日本は、煩悩の国ですから。
煩悩につぶされてしまうのが恐いのです。」

「それは、タイも日本も同じだ。
タイだって煩悩の国だ。

親孝行することは徳を積むことだ。
両親もきっと喜ぶことだろう。

還俗することは、決して悪いことではない。
還俗したからと言って恐がる必要はない。

5戒を守っていれば、何も恐れることはない。
5戒を守ることで十分だ。」


そのような会話を交わした記憶がある。
とても重みのある言葉だった。

その5戒さえもしっかりと守れているのだろうか・・・。

今、思い返してみると、日本のことを“煩悩の国”と表現したことをとても複雑に思う。

しかしながら、実にさまざまな“もの”に溢れている日本という環境は、心の奥で影を潜めている煩悩を刺激するに十分過ぎるのではないだろうか。

もっとも煩悩をくすぐられるということも、ものごとの正体を見破り、まだ気づきがなされていない自己の未熟さが原因だ。

なにも、日本の環境が悪いわけではない。
周囲の環境のせいにしているだけである。

日本は、煩悩の国などではない。

日本もタイも同じだ。
どこに身をおいていようと全く同じだ。


タイの寺には、多くのサーマネーン達がいる。
サーマネーンとは、見習い僧のことであるが、未成年の出家者である。

彼らはその後、還俗して一般の在家として人生を送る者が多いが、そのまま還俗することなく比丘となり、一生を出家として過ごす者もまた多い。

サーマネーン達は、日本でいえば、小学生や中学生くらいから20歳までの年齢だ。
多感な青春時代である中学生や高校生達である。

彼らと過ごし、話す機会が多くあった。

彼らのほとんどが、寂しいとも家族が恋しいとも言ってはいなかった。

中学生や高校生といえば、日本であれば、恋愛に忙しい時期か。
ところが、彼らの口から女性の話題は一切聞くことはなかった。

もっとも、出家という立場からなのかもしれないが。

寺の学校では、女性と接触するような機会は一切ない。
サーマネーンといえども出家者だからだ。


私にタイ語を教えてくた、とても親切な私と同い年の青年比丘がいた。

彼は、青年比丘ながら、出家歴は長い。
すでにベテラン比丘であり、長老比丘なのだ。

小学生か中学生くらいの頃に出家したと言っていただろうか。
サーマネーンとしても長く、比丘としても長い。
ベテラン中のベテランとでも言えようか。

そんな彼も、女性には一切興味がなさそうであった。

どうしてなのだろうか?

私は、不思議でたまらなかった。

女性に関心のない比丘は意外に多い。
私が出会った中では、サーマネーンの頃から長く出家生活を送ってきた比丘に比較的多かったように思う。
私の偏見かもしれないが・・・。

それは、「性」というものを意識し始める前から「性欲」という“危うき”に近づかない環境に身を置いてきたからなのか、あるいは少年期より性とは“妄想”であると知らされてきたからなのか・・・。

一度知ってしまったら容易には抜け出すことはできない。
性欲には、そんな一面がありはしないか。

何事にも言えることではあるが、はじめから知らなければそれは非常に楽だ。

性欲というものもまた、何割かはそれに当たるのではないだろうか。
自慰行為にしても、恋愛感情にしても、はじめから知らされなければどれだけ楽なことか。

私は、当時、よくそのように思った。


日本では、幼少時代より男女共学である。
“好きな異性”から始まり、“性欲の対象”へと変わる。
何度も恋愛を繰り返しながら大人へと成長していく。

それは、今の日本の社会の中では、ごく普通のことだ。
おそらくこの“普通”を疑問に思う者はいないだろう。

深く根を張っている性欲を思う時、ともすると知らず知らずのうちに教えられてきている側面があるのではないかと思った。

異性というものを教えられていないから、いとも簡単に性欲を離れることができたのではないだろうか・・・と、苦悩に沈む私はそう思わずにはいられなかった。


なぜか、タイの比丘達の顔は実にすがすがしく、実に晴々としているのだ。


私の起居していたクティ(小屋)には、いくつかの死体の写真を置いていた。
具体的にどのような写真なのかを詳細に書くことは避けたいと思う。

瞑想実践のためのものではあるが、日本の常識からすれば狂気だとも言えよう。
おおよそ理解されるものではない。

そんな写真を部屋の中にいくつも並べていた。

しかし、やがては、部屋の中の単なる“景色”となっていった。
慣れとはそんなものなのか。

性欲は、まったく去ろうとはしない。

去るどころか、男のものとも女のものとも判別が困難な腐りかけた死体の生前の姿を想像してしまうというありさまであった。

死体の写真の生前の姿を想像してしまう・・・

そう・・・「勝手に」美しい女性の姿を想像してしまうのであった。


真実の姿を見破りきれていない私。

「本質を見抜かなければ、全く意味がない」と、ある師から諭されたように・・・性欲というものの本質に気づき、その正体を見破ることができていれば、いつでも、どこにいても、誰とでも穏やかに過ごすことができるはずだ。

それができなければ、どこで生活をしたとしても煩悩の国である。
煩悩の国にしてしまうのか、安穏なる国とするのか・・・それは、自己の気づき次第ということだ。

何を書いても、何を言っても、所詮は私の言い訳に過ぎない。

煩悩の国へ帰るということ・・・それは、「私の気づきがなされていない。」ということにほかならない。


「私の気づきがなされていない。」


非常に情けないが、ただそれだけである。

ただこの一言に尽きる。



(『瞑想修行中の苦悩 ~煩悩の国へ帰るということ~』)

2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

比丘の性欲については、個々の事情はよくわかりませんが、同じ人間ですから、やはり性欲に悩まされている比丘はいらっしゃるのではないかと思います。かつてミャンマーの宗教省の資料を見たことがありますが、破戒で還俗した比丘のうち、淫戒に抵触して還俗した比丘が毎年相当数になっていて驚いたことがあります。

死体の写真といえば、昔、バンコクのワットマハタートの裏手(タマサート大学との間)にある仏教書店で、瞑想用の死体や骸骨の写真とイラストのシートを買ったことがあります。タイは、死体写真とか結構おおっぴらですよね。死体などのグロ系雑誌も見たことありますし。

最後に、私もやはり最後は「気づき」があるかどうかだと思います。最近ようやく「気づく」ということがどういうことなのか薄々わかりかけてきたというか、逆に言えば、いかに自分の「気づき」が甘いものだったかとわかってきました。

でも、甘い「気づき」を克服するには、とにかく専心して、没頭して気づきの瞑想を続けていくしかないのだと思っています。ミャンマーのサヤドー達からも、ひたすら専心没頭(absorption)してやれと何度も言われます。瞑想の才能の無い私は、ひたすら没頭してやるしかないようです。
お釈迦様の最後の言葉「怠ることなく努め励め」が身に滲みます。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

コメントをいただきましてありがとうございます。

そうですね。確かに、タイは“死体”に関して非常におおらかといいますか、おおっぴらですよね。新聞や雑誌などにも割と普通に掲載されていました。日本では全く考えられないことですね。問題として取り沙汰されないことがやや不思議ではありますが、それは日本人的な感覚なのでしょう。

タイにおいても女性問題等で強制還俗をさせられた比丘の話題がしばしば報道されており、新聞等へも掲載されたりしていました。そのあたりは、おそらくタイもミャンマーも同じなのでしょう。そう考えると、異性に興味のない者も多くいる一方で、やはり性の問題に苦しむ者も多いということなのでしょうね。

近年の瞑想の流行にともない「気づき」ということをよく耳にするようになってきましたが、「気づき」とは、容易である一方で、そう甘いものでもないと私は思っています。本当の「気づき」がなされてこそ“智慧”となるのだと思うのです。・・・うまく表現できませんがこのニュアンス、きちんと伝わっているでしょうか?
専心没頭・・・私も同じです。私は瞑想の才能が無く、没頭することすらままならない者です。“怠ることなく”ということすら実践できず・・・それほどまでに才能がない自分を嘆きたくなるほどです。しかし、それでも私は仏教が好きですし、仏教の教説は真理であると思っています。ほんの芥子粒ほどでも構わない、ほんの少しでも構わないので、より穏やかなる心に近づけたらいいなと思っています。

そんな思いから日々ブログを綴りながら、自己を振り返りつつ吟味しているなかで、パーラミー様のコメントには、いつも励ましていただいている気がいたします。本当にありがとうございます。

今後ともよろしくお願いいたします。