タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

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2014/10/26

タイの出家生活とはどのようなもの? 前編

タイの出家生活について。

実際にタイの寺で出家を経験することが最も早いのではあるが、事前にできる限りの情報を知っておくことも大切であろう。

『タイの出家の生活はどのようなものなのですか?』
『日本の僧侶の生活とは違いますか?』

まずは、これらのご質問に対して一言。
日本の僧侶の生活とは違う。

すでに、日本でも広く知られていることが多くある一方で、意外に知られていないことも多い。
また、日本での常識やイメージとは大きくかけ離れていることも多い。

このブログでも何度か紹介させていただいているが、比丘の生活は、在家の生活とは明確に異なる。
タイの比丘の生活とは、世間とは一線を引いた『出家』なのである。

在家の生活とは異なるからこそ“出家”なのだ。
在家の生活をしていないからこそ“比丘”なのだ。

この点を念頭に置いておかなければならない。

そして、もう一点。

比丘とは、戒律を守って生活を送る者だという点である。

戒律を守るからこそ比丘たり得るのである。
これは、最も重要な点で、タイの仏教の根幹をなすものである。
この点もはじめにしっかりと理解しておかなければならないことだ。

出家であり、比丘である。
そして、戒律にそった生活を送る者。

ゆえに在家者から敬意を払われる対象たり得るのである。


今回は、そうしたタイの比丘の生活についてエピソードなどを交えながらご紹介させていただきたいと思う。
日本の生活からすれば、窮屈に思えることも多々あることかもしれない。

本来であれば、仏典や戒律に根拠を求めつつ、そのひとつひとつについてをお伝えをしていくべきであるが、私の勉強不足ゆえ、また手元に十分な資料がないゆえに、学問的な説明は割愛させていただくことをご容赦願いたい。

なかには、比丘が受ける227戒の中に明確に根拠を求めることのできる事柄もあるが、ここでは私の体験を中心に書かせていただくこととしたい。


具体的に比丘は何をしなければならなくて、何をしてはならないのだろうか。
おそらくそれらは、タイで普通に生活を送っているだけでは全く気づき得ないことも多々あることか思う。
それでは、箇条書きに主なものを紹介していきたい。


○髪の毛を剃り落とす。
当然ではあるが、比丘である限り髪の毛は剃る。
日本では、僧籍取得後は頭髪を伸ばしてもよい宗派もあるらしいが、むろんそのようなことはない。

○眉毛を剃り落とす。
タイの比丘は、眉毛も剃り落とす。
日本の僧侶が驚く点のひとつであるという。
ちなみに、お隣のミャンマー(ビルマ)では眉毛は剃らない。

○満月と新月の日に髪の毛を剃る。
一般的に森の寺では、“満月の日”と“新月の日”の月2回。
町の寺では、“満月の日”の月1回、髪の毛を剃ることになっている。

もし機会があれば、一度注意して比丘を見ていただきたい。
満月の翌日は、目に入るどの比丘も剃りたての頭をしているはずである。

○托鉢の時は、裸足で歩く。
朝の托鉢の時には、比丘はみな裸足で歩かなければならない。

この点も、もし機会があれば、一度注意して比丘を見ていただきたい。
みな裸足で歩いているはずだ。

裸足に慣れない新米比丘は、大変足が痛いという。
慣れれば、どんな道を歩いたとしても、大して痛みを感じなくなってしまう。
大概の凸凹道にも馴れてしまうのであるが、時々落ちているガラスの破片には要注意だ。

○托鉢の時は、静かに黙って歩く。
静かに布施を受け、静かに立ち去る。
当然ではあるが、おしゃべりは厳禁だ。

時には、短い偈文を読むこともある。

○午後は、食事を摂ってはならない。
これは、日本においても広く知られていることかと思う。
一般的には、森の寺では朝食のみの一日一食、町の寺では朝食と昼食の一日二食である。

○出家後は、出家の衣を着用する。
出家した後は、出家者が身につけることを許されたものを着用しなければならない。
僧侶がスーツを着たり、洋服を着たりと、自分の気が赴くまま、自由に何にでも着替えることはできない。
言い換えると、出家者は在家者の服装ができないということであり、一度出家をしたら、出家者の格好をしていなければならないということである。

頭髪を剃ってはいるが、いでたちはバックパッカーという日本の僧侶に出会ったことがあるが、その格好ではタイにおいては仏教の僧侶であるとは認められない。

“僧侶として”タイへ行く機会のある方は、少々注意されたい。

○寝る時は、パジャマに着替えない。
特に寝巻というものがあるわけではない。
比丘はみな衣の下には、アンサというものを身につけているが、このアンサ姿で床につく。

ある出家して間もない日本人比丘と過ごす機会があったが、夜間に所用で彼の居室を訪問したところ、居室で“パジャマ”を着ていたのには驚いた。

さすがにこれには仰天した。
上記の通り、在家で着用する服装は着てはならない。
すぐにそれはいけないことだと伝えたが、どうやら彼は誰からも教えてもらう機会がなかったようだ。

○パンツははかない。
これには驚く日本人も多いらしい。
比丘は、サボンという腰巻(ロングスカートのイメージ)を身につけているが、その下には何も身につけていない。

ちなみに、メーチー(女性の準出家者)はどのような形態をとっているのかということは、知る機会がなかったために私にはわからない。

○夜間は、寺の外に出てはならない。
夕刻には寺に戻っていることが望ましい。
寺への帰宅が難しい場合には、その場の近くにある寺に宿泊する。

夜行バスなどでは、旅の比丘と出会うこともあるが、そうした例外を除いて、夜間の町や村で比丘を見かけることはない。

夜間にこっそりと抜け出して・・・という事件をタイの新聞で見かけることがある。
日本人の感覚から言うと、「なんだ坊さんが夜に寺を抜け出すことなんて、新聞に載せるようなことなのか?」と疑問に思うかもしれないが、それはタイでは「事件」と言うべき事柄なのである。

なぜならば、それは世間が是としない行為でもあるからである。
寺にいるのが嫌ならば還俗しなければならない。

○招待された時を除いて、ホテルや旅館には宿泊しない。
もてなしを施した施主の自宅等に泊めていただくこと以外に外出した際には、寺に宿泊をしなければならない。
『比丘は寺』というのが鉄則だ。

ゆえに私も出家中は、ホテルや旅館には宿泊したことがない。

○バスや電車には比丘価格が設定されていることがある。
比丘は公共交通機関に割安で乗車することができる。
ひらたく言えば、「お坊さん割引」である。

基本的には比丘とは、お金を持つことのできない存在でもあるため、できるだけ戒律を守った生活に近づけるための計らいであり、一種の比丘への「布施」でもある。

○席を譲られた時は、素直に無言でその好意を受け取る。
比丘は、さまざまな場面で席を譲られることがある。
席を譲るという行為も、一種の比丘への「布施」であるので、素直に受け取ればよい。

○比丘に不適切な場所へは立ち入ってはいけない。
例えば、デパートやショッピングモール、コンサート会場などがそれにあたる。
コンサートは、言うまでもなく歌舞演劇の鑑賞であり戒律に触れる。

デパートやショッピングモールなども比丘と出会うことのない場所のひとつだ。

○女性には触れてはいけない。
これも、広く知られていることかと思う。

タイでは、女性の方から触れるのを避けてくれることもある。
もし、比丘と触れてしまえば、“触れさせてしまった”女性側が悪くなってしまう。

○飲酒はできない。
これも、広く知られていることかと思う。

これは、徹底されている。
“人の見ていないところでこっそり”とか、“夜間に内緒で・・・”というようなことはあり得ない。
酒が布施されてくることもない。
比丘を続けている限り、酒は飲めない。

酒好きの方が出家する際には、相当の覚悟が必要かもしれない。

○比丘は、乗り物を運転しない。
自動車はもちろんのこと、原付バイクや自転車の運転もしてはならない。
お坊さんが自転車でちょっとそこまで・・・ということは決してできないわけだ。

日本では、自動車や原付バイク、自転車に乗った“お坊さん”をよく見かけるが、タイではそういった景色に出会うことはない。

○調理をしてはいけい。
「托鉢で得たものによって生活をする」ということが原則であるため、比丘は調理をしない。
寺には在家の料理人がおり、作ったものを比丘に布施するという形をとる。

○スポーツをしてはいけない。
比丘は、運動やスポーツに興じることはできない。
日常生活の中においても、小走りや駆け足で移動することは好ましくない。

私は、ついやってしまったことがある。
知人に会うために外出した時、時間が迫ってきたために、ついつい焦ってしまった。
思わず小走りで歩いてしまい、周囲の人達からひどく怪訝そうな目で見られてしまった事を覚えている。

○目上の比丘に対しては合掌して話さなければならない。
先輩・後輩関係は、比較的厳しいと言える。
しかし、日本のような上下関係の厳しさとは少し異なる。

寺の住職や目上の比丘と話す時には、合掌(手を合わせて)しながら話さなければならない。
また、特に立場が上の比丘(高僧や住職、師僧など)の前から退席する時には、三礼(3回礼拝をする)してから退席しなければならない。

○在家者に対しては合掌してはならない。
逆に、目下に当たる比丘や、在家者に対しては合掌してはならないことになっている。
立場は、非常に明確であると言える。

○在家者に対して「ありがとう」は言ってはならない。
布施を受けても「ありがとう」と言ってはならない。
日本人であれば、ものを受け取ってお礼を言わないというのは、非常に心が痛む。
これは、日本の美しい習慣のひとつだろう。

しかし、タイにおいては比丘はお礼を言ってはならない。
比丘がそうした行為をすることは、相手の「徳」を消し去ってしまう行為になってしまうからである。
徳を積ませていただいているのは、あくまでも布施をした在家者の側であるからだ。

すなわち、布施をさせていただいて「ありがとうございます」。
私に徳を積ませていただいて「ありがとうございます」ということなのである。


ざっくりではあるが、特に日本人にとってあまり馴染みがないと思われる事柄を挙げてみた。
戒律の順守とともに、日常のちょっとした行いも比丘らしくなければならない。

比丘は比丘らしく振る舞う。

これも、自己を常に観察するということにつながってくるものだ。


つづく


⇒次回『タイの出家生活とはどのようなもの? 後編 』
~タイの寺で必ず聞かれる2つの質問~



(『タイの出家生活とはどのようなもの? 前編 』)

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