タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

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2014/10/30

タイの出家生活とはどのようなもの? 後編

『タイの出家生活とはどのようなもの? 後編 』
~タイの寺で必ず聞かれる2つの質問~


後編では、今回の話題から少しだけ外れて、“必ずタイ人比丘から質問されること2つ”について触れてみたい。

“必ずタイ人比丘から質問されること2つ”とは、『僧侶の結婚について』と『戒律について』である。
この2点は、必ずタイ人から質問されることなので、タイへ行く機会がある方は、少々心づもりをしておいたほうがよいかと思う。

日本の僧侶が結婚してもよいということは、タイでは非常に有名なことであり、広く知られていることである。
それゆえ、どこの寺へ行っても、寺で数日間過ごしているうちに誰かから必ず質問される。

私は、
『多くの僧侶は結婚していて家族がいる。
その子どもが僧侶となって寺を継ぐ。
日本では僧侶は家業なのだ。』
と説明することにしていた。

『僧侶の妻は、僧侶(比丘尼・尼さん)なのか?』という質問もたまに受ける。
それに対しては、僧侶の場合もあるし、そうでない場合もある、と答えた。
おそらく興味津々なのであろう。
“僧侶の家族”については、かなり突っ込んだ質問も受けたことがある。

大概のタイ人は驚く。
それもそのはずである。
タイでは考えられない、全くあり得ないことだからだ。

そして、もうひとつ。
『日本の仏教には戒律があるのかどうか?』ということを必ず質問される。
戒律は、タイの仏教の根幹をなす重要な存在であるだけに、その関心度は高い。

私は、
『戒律は受けるが守らなくてもいい。戒律がない宗派もあるのだ。』
と説明することにしていた。

戒律を受けない宗派もあるし、宗派によって戒律の種類が異なることもあるが、日本の多くの宗派で「受戒」がある。
受戒は重要であっても、その後のことをあまり言うことは少ない。

非常に大雑把な説明なのかもしれないが、大筋では間違いではないはずだ。

これらは、少々回答に窮する質問であると私は思う。
日本の仏教の“痛いところ”でもあるのかもしれない。
正しく理解されている、されていないは、また別の問題であるとしても、こうした日本の状況は広く知られているということである。

タイへ行かれる機会のある方は、自分なりの答えをあらかじめ準備しておくとよいかもしれない。


もとの話題に戻ろう。

出家とは、「気楽なもの」であると答えるタイ人も多い。
タイでは、出家を済まさなければ一人前とは認められない。
男性であれば、誰もが一度は出家をする・・・それゆえ、出家自体は、それほど苦痛なものでもないし、窮屈なものでもない。

戒律に反する行為でなければ、何をやっていても構わない。
誰も何も言わないし、注意されることもない。

働くこともないし、金を稼ぐこともない。
働いてはいけないし、金を持ってはいけない。

何もせずとも生活だけはできる。
衣・食・住が保障された環境だ。

決められた日課は、托鉢と勤行と掃除。
それも、非常にゆるやかなものである。

瞑想に時間を費やしてもよい。
勉強に時間を費やしてもよい。
昼寝をしていようとも怒られることはない。
一日おしゃべりをして過ごしていても構わない。

全て個人の自由である。

こうしたところも、自己責任と自業自得の世界が生きているのかもしれない。

作法についても細かなものはない。
苦労をして身につけなければならないものもない。

出家の生活は、いたって自由なものなのである。
だからタイ人にとっては「気楽なもの」であるのかもしれない。

しかし、そうは言っても、紹介をさせていただいている通り、出家の生活は実に“制限”が多い。
日本の習慣と比較すると、やはり窮屈に感じるのではなかろうか。

常に守っていなければならないことが厳然としてある。
戒律は、守るものであり、生活そのものであり、“生きている”ものなのである。

形だけのものでは決してない。
戒律を守らない比丘は、すでにもう比丘ではないのである。

比丘の本分とは何なのかを考えれば、なぜそうなっているのかが理解できるのではないだろうか。

タイの仏教は矛盾がないと感じたのは、こうした非常に筋が通っている、文面通りの生活が“実際にある”からだと私は思う。
日本の仏教のように“痛いところ”というものはない。

全てが仏典に依っている。
守らなければならないことは守る。
変えてはならないことは変えてはならない。

単に書いてあるだけではない。
実際の生活となっているところが重要だ。


いつも心穏やかにしているのが比丘である。
いつも心穏やかであろうと努めるのが比丘である。
いつも自己を見つめるのが比丘である。
いつも自己を見つめようと努めるのが比丘である。


経済の発展が著しく、日夜激しく変化しているタイであるが、私はこれが本来の出家のかたちなのだと思った。



(『タイの出家生活とはどのようなもの? 後編 』
~タイの寺で必ず聞かれる2つの質問~)

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