タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/03/30

父の病気2 ~罪悪感とともに~


この記事は、タイ佛教とは直接関係のあるものではありません。しかし、私の心の変遷の中においては、とても大きな位置を占めているものです。現在の私へと至る過程のなかでの心の葛藤を書いた記事です。



父は、私が中学校1年生の時に某都市への転勤が決まり、単身赴任となった。

父不在の生活となったわけであるが、私は自身の生活に大きな変化は感じなかった。

当時の私は、さみしいとか、家族がどうという感情よりも、“怖い”存在というか、“口うるさい”存在がいなくなったことで、どこか解放感を感じていた。

思春期らしい感情だったのかもしれない。


父が実家へ戻って来たのは、高校3年生の時であった。

しかし、父とは入れ違いに、私は大学生となり、実家を出て一人暮らしを始めた。
(関連記事:『大学でのショック』


それゆえ、中学生の時から大学を卒業し、再び実家に戻るまで父とはゆっくりと顔を会わせ、言葉を交わす機会がなかった。

しかし、私が大学を卒業し、父は単身赴任から戻り、同じ屋根の下で大人と大人のつき合いが始まろうという時、すでに父は難病とともにあった。

じきに言語能力を失い、父の言葉を聞くことはついにかなわなくなった。


これをお読みの皆様であれば、もし家族が要介護状態になった時、どう向き合うだろうか。


母が父の介護にあたった。

定時の検温に下の世話。

食事である栄養剤の胃への注入。

毎日の着替えに整容。


母の介護は、それはそれは献身的なとても手厚い介護だった。

ケアマネージャーさんも母の介護には尊敬の目を向けたほどだ。


全てを母に任せて終わりでいいのか。

金で支援をすればそれでよしなのか。

施設にお世話になれば解決なのか。


私の心情としては、どれも腑に落ちるものではなかった。

毎日毎日、手厚い介護をしている母を横に、母がいるから私はいい・・・。

どこかそんな思いがあった。


一方で、どこか後ろめたく、罪を背負っているような気がした。

母に全てを任せてしまっている私。

何もしていない私。

何もできない私。


言い表しようのない罪悪感が私の背中を覆い、重くのしかかった。

答えは出なかった。


父とは、男同士であるが故に、どうしても正面から向き合うことができなかった。
それが私と父との間柄でもあった。


『地震・雷・火事・親父』


そんな言葉がある。

比較的厳しい父でもあったので、本音で相談したことなど一度もない。
そいういった機会もなかったし、したいとも、しようとも思わなかった。

どうしても父には近づけなかった。
関わることができなかった。

それは、照れ臭さからなのかもしれない。

関わり合うのが家族。
助け合うのが家族。

やらねばならない。
しかし、どうしてもできない。

その葛藤だった。


私は、結局、なにもすることができなかった。


父にも、母にも。


父が亡くなるまで。


(つづく 『父の病気3 ~父とタイとの間で~』



(『父の病気2 ~罪悪感とともに~』)



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4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

この記事にふさわしいコメントではないですが質問させて頂きました。

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

返信させていただきましたので、よろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

すみませんが再び質問させて頂きました。

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

返信させていただきましたので、ご確認ください。