僧侶としての「身だしなみ」を示した条項もあるが、基本的には一つ一つが自分自身の行為に「気づく」ことを目指していて、最終的には行・住・坐・臥の全てが瞑想につながるものであると理解している。
ここでは、戒律のひとつひとつを検討していくことはしないが、例えば、「僧は走ってはいけない」というものがあるが、走っている時にははたして冷静な目で自己を見つめることができるであろうか。
また、「スープを飲む際にはズルズルと音をさせてはいけない」というものがあるが、不作法であるばかりか、やはり自分が食べているという行為を見つめることはできない。
もうひとつ、出家者である僧の生活は、全面的に在家の信者による支援に委ねられている。
それゆえに、不作法なことは特に戒められており、立ち居振る舞いも重視されているのであるが、この辺の指摘は、専門書を参照されたい。
私は、実際に戒律の中で生きてみて、戒律とは、『わが身を守ってくれる存在』、そのように感じた。
特に大きいところでいえば、タイの僧は、女も、酒も、お金も触れることを禁止されている。
これは、俗な表現をすると、「身を滅ぼすものからは遠ざけよ」とのことではないか。
週刊誌を思い浮かべてみるとわかりやすいかもしれない。
週刊誌には、どのような話題が書いてあるだろうか。
週刊誌の話題はといえば、異性に関するスキャンダル、酒に関する失敗、金に関するモメ事についてばかりではないか。
まずは、そのような危険なことから離れることを勧めているのである。
そして、心身環境を整えて、自分自身の心を見つめることができるように心を落ち着かせて、物事を冷静に観て、冷静な判断ができる環境を整えよ、ということであろう。
一方で、在家仏教徒が守るべき生活上の徳目としての五戒では、
1、生き物を殺さない(不殺生)
2、盗みをしない(不愉盗)
3、嘘をつかない(不妄語)
4、夫または妻以外の異性と関係しない(不邪淫)・・・※出家者は「不淫」であることに注意。
5、酒を飲まない(不飲酒)
となり、心の安らぎにつながる最低限のラインが示されている。
意外にも悩み事とは、自分自身で作り出していることも多いものだと気づかされることがある。
日本においては、戒律とは、単に形式的なものだと軽く見る人も多く、重視されない。
また、私もそのように思い込んでいたが、実際にその生活の中に入って、触れてみると「わが身を守ってくれてる存在」であると感じた。
戒律とは、身のまわりの煩悩の誘惑から身を守る『鎧』のようなものである。
(『戒律』)
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