タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2026/10/09

タイの仏教における『自浄作用』を考える ~高僧の女性問題から見えてくるもの~


つい先日、タイの高僧をめぐる事件が大きな話題となった。


すでにご存知の方も多いことと思う。


事件の概要は以下の通り。



『タイ中部アユタヤ県の由緒ある寺院の元住職(66歳)が、寺院の寄付金など約9200万バーツ(約4億3000万円)を不正流用した疑いなどで逮捕された。さらに、寺院内で47歳の女性と性的な行為をしていた防犯カメラ映像が拡散。捜索では、この2人から現金や金塊など約10億円相当の資産が押収された。高僧は事件後に還俗し、金銭をめぐる容疑は否認している一方、映像の内容は認めているという。警察は、資金の流れや他の関係者についても捜査を続けている。』



特に、僧侶が女性と性的関係を持つことは、仏教に対する信頼を失墜させる重大な問題として受け止められている。


こうした事件では、多額の金銭をめぐる問題が同時に取り沙汰されることも少なくない。


僧侶が女性と性的関係を持つことは、上座仏教の律において最も重い『波羅夷罪(はらいざい)』に当たる重大な違反である。


波羅夷罪を犯せば、僧団から永久に追放され(=強制的に還俗させられる)、その後も再び比丘として出家することも認められないほどの重い違反である。



タイで、このような事件が大きく報道されるのは、単なる“ゴシップ”としてとりあげられているわけではない。


そこには、仏教に対する篤い信仰と揺るぎない信頼が、今なおタイの社会の中に生きていることの現れであると見てよいのではないだろうか。


私は、そのように思っている。


つまり、『あってはならないこと』だからこそ、大きく報道されるのである。











さて、今回の高僧の女性問題について、私が指摘しておきたいと感じたことがある。


それは、仏教教団に“自浄作用”が働いているという点だ。


非常に大切なことであり、重要なことである。


今回の事件では、僧侶の女性問題だけでなく、寺院の寄付金をめぐる不正の疑いなども捜査の対象となっている。


女性との性的関係については、律に基づいて極めて重大な違反として強制的に還俗させられ、住職という地位や職務はもちろん、“僧侶”の身分というか僧侶であるという資格そのものを失っている。


たとえ住職や高い地位にある者であったとしても、地位云々の前に僧侶であるわけであるし、戒律の定めそのものが変わるわけではない。


僧団からの追放、すなわち強制還俗は、あくまでも仏教教団内における判断であり、その根拠となるのは律である。


つまり、律が毅然として運用されているのだ。



その一方で、警察による捜索や逮捕、金銭の不正流用などについての捜査は、世俗の法律に基づいて行われる。


つまり、戒律違反(破戒行為)に対する僧団内部の処分と、法律に違反した場合の世俗社会における刑事上の責任とは、分けて考える必要がある・・・この点は、タイの仏教の非常に興味深いところだ。


今回のような事件では、この二つの領域が並行して進められているわけである。



僧団内部には、破戒行為は許さないという厳しい姿勢がある。


僧団内部だけではない。


在家の側にもまた、僧侶には僧侶として“あるべき姿”を求める厳しい“眼”がある。


それだからこそ、こうした事件が明るみに出て、問題として徹底的に追及されるのである。



私は、そこに仏教教団としての『自浄作用』の一端を見ることができると感じている。


仏教への信頼を失墜させる大変残念な事件ではあるけれども、『自浄作用』が働くということは、非常に素晴らしいことではないだろうか。



タイでは、多くの男性が一時的に出家し、僧院生活を経験する。


もちろん、その知識や経験、体験の深さは人それぞれである。


何年も比丘として出家生活を送る者もいれば、数日の出家で終わる文字通りの三日坊主もいる。


それぞれに価値がある。


幼い頃から仏教に触れ、出家や僧院生活を身近なものとして経験することは、タイ社会における仏教のあり方を考えるうえで、非常に重要な意味を持っている。


たとえ短期間であったとしても、出家や僧院生活を経験することは、僧侶とはどうあるべきなのか、そして仏教徒としてどのように生きるべきなのかを考える善き機会になるからだ。


それは、仏教教団を安定的に維持し、僧団の“清浄さ”を保っていくうえでも、とても大きな意味を持っているのだ。



もちろん、タイ国内においても仏教の堕落や僧侶の問題行動が指摘されている。


今回のようなニュースを目にすることは、仏教を学び、実際にタイの僧院で出家生活をさせていただいた私にとっても、決して気持ちのよいものではない。


しかし、そのように感じる一方で、何か問題が起きたときに、それを『仕方がない』と放置をしたり、見て見ぬふりをしたりするのではなく、律に照らして適正に処理し、僧団内部の側からも、在家の側(社会の側)からも厳しくそれを問う。


そうした姿を見たとき、私はタイの仏教には、今なお間違いなく『自浄作用』が働いているのだと感じるのである。






■参考文献


・事件の概要

(下記URLの文献より)


『タイ中部アユタヤ県の由緒ある寺院の元住職(66歳)が、寺院の寄付金など約9200万バーツ(約4億3000万円)を不正流用した疑いなどで逮捕された。さらに、寺院内で47歳の女性と性的な行為をしていた防犯カメラ映像が拡散。捜索では、この2人から現金や金塊など約10億円相当の資産が押収された。高僧は事件後に還俗し、金銭をめぐる容疑は否認している一方、映像の内容は認めているという。警察は、資金の流れや他の関係者についても捜査を続けている。』


・出典

【高僧が寺院で元チアリーダー女性と
行為する防犯カメラ映像が拡散
「ぎゅっと抱きしめ、テーブルの上に仰向けに」
…寄付金など約4億円横領の疑いも【タイ】】


https://news.yahoo.co.jp/articles/0b96993018fde4b30c79c85c05fafbad70da716a

(※10/9現在、記事は削除されている)


https://article.auone.jp/21080690-2898-482f-af82-8da2e71cba01

(※auWebポータル・配信元は上段の記事)






(『タイの仏教における『自浄作用』を考える ~高僧の女性問題から見えてくるもの~』)






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2026/09/19

タイの仏伝を訪ねる ~同じ釈尊なのになぜ違うのか?~

 

日本の仏伝とタイの仏伝を比較してみると、非常に面白い。


タイの仏伝には、日本ではあまり知られていない場面や、馴染みのない場面がいくつか描かれているのだ。


ここでは、その代表的なものを2つ紹介したいと思う。



仏伝を詳しく調べてみると、その背景や歴史など、なかなか奥深いものがあり、到底言い尽くせるものではない。


日本は大乗仏教(北伝仏教)であるし、タイは上座仏教(南伝仏教/テーラワーダ仏教)だ。


受け継がれてきた経典やその教えが異なるし、さらには地域の信仰や文化も異なるため、仏伝の描かれ方にも違いが生まれたのであろう。



タイでは、寺院の壁画に釈尊(ここでは釈尊という表記で統一する)の生涯を描いた“仏伝”や、釈尊の前世の物語である“ジャータカ”が描かれることがある。


経典という“文字”とともに、壁画という“絵”を通して仏教の“教え”が人々の心へと受け継がれてきたのである。


そうして描かれた釈尊の生涯のなかで、同じ場面を描いたものでも、日本のものとは異なる場面がある。


それが、『降魔成道(ごうまじょうどう)』の場面である。


悟りへと至るその瞬間の出来事は、日本の仏伝においてもそうであるように、タイでもとても身近で、広く親しまれている印象的な場面のひとつだ。


タイでも日本でも、釈尊の生涯のなかでも最も重要な場面のひとつであることに変わりはないが、日本のものとは少し“描かれ方”が違うのだ。





降魔成道(ごうまじょうどう)
イラスト:たーれっく氏


降魔成道図の解説
イラスト:たーれっく氏
(※掲載の許可をいただいています。)






悟りを開こうとする釈尊の前に、魔王・マーラが現れ、悟りを妨げようとする。


マーラが釈尊に『お前に悟りを証明するものはあるか?』と迫ると、釈尊は右手を大地に触れた・・・すると、大地の女神・メートラニー(プラ・メー・トラニー)が現れた。


メートラニーは、釈尊が過去世から積み重ねてきた功徳の証人として、自らの髪の毛を絞ると、そこから水が流れ出て、さらに大きな洪水となり、マーラとその軍勢たちを押し流して撃退した。


そして、ついに釈尊は、マーラたちの誘惑と妨害を退け悟りを開いた・・・という場面を描いたものである。


マーラの軍勢が釈尊の悟りを邪魔しようとする場面は日本も同様であるが、大地の女神であるメートラニーが現れるというところがとても印象的だ。


日本ではあまり知られていない、ドラマティックかつインパクトのある逸話だろう。



ちなみに、私は全く意識をしていなかったのであるが、たーれっく氏によれば『お堂に入ってくる“魔”を祓うという意味で、お堂の出入り口上部によく描かれる』そうである。


タイの寺院を参拝される機会があれば、ぜひとも注意してご覧いただければと思う。



もうひとつ紹介したい。


『三道宝階降下(さんどうほうかいこうげ)』の場面である。






三道宝階降下(さんどうほうかいこうげ)
イラスト:たーれっく氏

三道宝階降下図の解説
イラスト:たーれっく氏
(※掲載の許可をいただいています。)






釈尊が悟られてから7日後、母であるマーヤー夫人はこの世を去ってしまう。


この世を去った後、マーヤー夫人は三十三天(忉利天)に生まれたとされ、釈尊は雨安居の3ヵ月間、忉利天へと昇ってマーヤー夫人に説法した。


亡き母への3ヵ月間の説法を終えた釈尊が忉利天から地上の世界へと戻る際に、三本の宝の階段(向かって右側:金、向かって左側:銀、中央:さまざまな宝石)を通って降り立った・・・という場面を描いたものである。


この時に釈尊が降り立ったとされる場所として伝承されているのがインドの『サンカシャ』である。 


この場面は、日本人にとってはあまり馴染みのない場面かもしれないが、タイの仏伝ではよく描かれる広く知られた場面のひとつだ。


馴染みのない場面だけに、非常に記憶に残る場面なのではないだろうか。


一体、どういう場面なのだろうかと考え込んでしまうところであるが、その逸話の意味や描かれている人物の意味を知っていれば、また味わいも深いものとなろう。



タイの仏伝のなかで、日本ではあまり馴染みのない場面を2つ紹介した。


どちらもタイでは、誰もが知る釈尊の生涯の一場面だ。


同じ仏伝でも伝承が違っていたり、日本へ伝わってはいても、仏伝としては採りあげられることが少なかった逸話など、掘り下げて吟味してみるとさまざまな背景があり、非常に深いことがわかる。


南伝と北伝とでは、仏教が伝わった地域や伝承の違いがあったりするため、また仏伝の伝承そのものが異なっていたりするため、そこに描かれる場面にも必然的に違いが見られるのだろう。



しかし、いずれにしても、仏伝は単なる釈尊の生涯を知るための『物語』であるのではない。


そこに描かれた釈尊の生き方や実践を通して、私たちはどのように生きるのかを学ぶための生きた教えでもあるのだ。


そして、必ずその逸話やエピソードが象徴していたり、教えていることがらがあるはずであり、それらを汲み取って自身の生きる道へと反映させていかなければならない。


遥か遠い昔の物語として終わるものではなく、私たちが今日という一日を、今この瞬間をどのように生きるのか・・・?という問いと実践へとつなげていかないといけない。


それでこそ、はじめて仏伝の意味があるのだと思う。






【イラストのご協力】


■たーれっく氏

タイ・バンコク在住の漫画家。
タイのお寺の情報を中心に発信されている。

訪問されたお寺関係は、なんと約2600カ所!
タイ関係の電子書籍を多数出版されている。

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2026/09/09

仏足石が私に語り掛けてくれるもの


私が出家したチェンマイの山奥にある小さな森のお寺は、仏塔に仏足石を祀る“仏足石の寺院”である。


バンコク周辺やタイ中央部では、あまり見かけるのことのない仏足石であるが、北タイでは仏足石に対する信仰が強く、仏足石を礼拝対象とする寺院やブッダの足跡のように見える石や岩のくぼみを礼拝対象とするお堂がよく見られる。


非常に細かな作りの仏足石もあれば、一見すると、どのように見たらブッダの足の形に見えるのだろう・・・?と、なんとも罰当たりなことを考えてしまわざるを得ないような仏足石までさまざまだ。


どちらかといえば細かな作りの仏足石よりも、後者のように足の形には見えないような自然の石や岩にできた“くぼみ”をブッダの足跡として礼拝対象になっていることの方が多いように思う。


これがブッダの足跡であると言われれば、確かに“足の形に見える”といった具合だ。


しかしかがら、自然界にできた足跡のように見える“くぼみ”をブッダの象徴として、あるいはブッダそのものとして大切に信仰されてきたものである。


これは、まぎれもなくブッダの足跡なのである。


事実、ブッダが実際にここへ来た時の足跡であるという言い伝えを持つものが少なくない。


だからこそ、ブッダがここへ来たことの“証”として大切にされているのだ。



なぜ北タイにこうした信仰が根づいているのかを探究したくなるところであるが、テーマがなかなか深いのでここでは触れないことにしたい(どなたかお詳しい方がいらっしゃれば、ぜひともご教示いただければと思う)。


ともあれ、私が出家した山奥の小さなお寺もまた、北タイのこうしたブッダへの篤い信仰を受け継でいでいるお寺のひとつだということである。



僧院の境内である広い山の中には、近隣ではよく知られているらしい自然石の小さな仏足石がある。


その仏足石では、地元のカレン族による大きなお祭りが執り行われる。


そう、私が出家した小さなお寺は、仏足石のお寺であるとともに、カレン族に支えられているお寺でもあるのだ。


美しい民族衣装を着た地元のカレン族の人たちが銅鑼を打ち鳴らしながら、山中にある仏足石まで練り歩く大変賑やかなお祭りだ。



ここで特筆すべきは、僧院内の出家者や修行者たちは、お祭りには一切関わらないし、一切関係がないという点だ。


僧院として関わることがあったとしても、お布施を受け取る際に祝福する程度である。


その他諸々、あくまでもお祭りをやっているのは、村の在家の人たちであって、僧院や出家者には関係がないというスタンスだ。



賑やかな境内を横目に、私の指導の先生にどのようにお祭りの日を過ごしたらよいかを尋ねたところ、『いつもの通りに過ごしていればよい』『見学に行きたければ行っても良いが、瞑想の邪魔にならないようにしなさい』ということであった。


『お祭りの邪魔にならないように見学する』のではなく、『瞑想の邪魔にならないようにお祭りを見学する』か・・・なるほどと思った。


だから私は、このお祭りをほとんど見ていない。


何のためのお祭りで、境内でどんなことをやっていて、いつ始まっていつ終わったのかなど、お祭りについてほとんど知らない。


ここに書いていることは、ほんの一目だけ目にした時の様子と、嫌でも聞こえてくる賑やかな音と、僧院内の人から伝え聞いたことだ。


今思えば、少しもったいないことをしたと思わなくもないが、私は仏教と瞑想を学ぶためにタイで出家をしたのだから、これで良かったのだ。



・・・お祭りが終わった後、地元のカレン族出身の先輩比丘に呼ばれた。


『ちょっと俺について来い!』


そのように言われて、山中にある仏足石のところまで連れて行かれた。


今日は、ここにたくさんの人たちが集っていたのだろう・・・人が歩いた跡がはっきりと残っている。


先輩比丘が自然石にできた“くぼみ”を指して『これが仏足石だ(ブッダの足跡だ)』と教えてくれた。


さらにブッダの足跡とされる“くぼみ”にたまっている雨水が非常に霊験あらたかな水なのだそうで、飲むと良いのだと教えてくれた。


『へぇー』と受け流したが、『とてもご利益がある水だからお前も飲め』とすすめられた。


泥水ではないものの、落ち葉や砂、細かな塵が混じっているのが見える。


いくら神聖なるブッダの足跡にたまった水だとはいっても、山中の自然石にたまっている“生水”だ。


霊験あらたかな水であったとしても、さすがにそれには抵抗があった・・・


躊躇していると、『衣で漉して飲めば問題ないから』と言って、半ば強引に私の衣をひっぱって手のひらの上で水を濾しながら汲んでくれた。


さすがはカレン族出身の先輩比丘、非常にワイルドだ。


ここまでされてはもう逃げられない・・・仏足石の“ご霊水”のご利益を信じつつ、腹をくくって大切なひと口の水をいただいた。


腹を壊しはしないか不安ではあったが、こうまでして私に水を飲ませてくれた先輩比丘の気持ちが嬉しかった。



忘れられない仏足石の、そして先輩比丘との思い出深いエピソードだ。



思えば、私は仏足石とは深い縁があるようである。


実は、学生時代に大変お世話になったお寺にも仏足石があった。


だから、私にとって仏足石は、とても身近で、とても親しみを感じる存在だ。


日本では、仏足石をブッダそのものとして礼拝するというよりも、足腰の健康を求めて信仰されることが多いのではないだろうか。


あるいは、仏像が作られる以前はブッダの象徴として礼拝対象とされていたという歴史的なことを踏まえながら“釈尊”を偲ぶという位置づけではないだろうか。


タイの仏足石のように、ブッダが『実際にここへ来た』そして『この足跡はそのことの証である』といった言い伝えを持つものではないし、自然石にできた足跡に見える“くぼみ”を仏足とすることも少ないのではないかと思う。



同じ仏足石でも、日本とタイとでは、そのとらえ方が若干異なるのかもしれない。






僧院長である住職からいただいた仏足石
この裏側には住職の署名が入っている
この仏足石が私に語り掛けてくれる・・・





そんな仏足石であるが、私の手元にこうした一連の記憶を思い起させてくれる大切なものがある。


一般的なものよりも少し大きなブッダの足をかたどったプラクルアン(タイのお守り)だ。



これは、私が出家したお寺のお堂の棚に置かれていたものである。


日々の読経をはじめ、朝食、瞑想・・・全てこのお堂のなかで行う。


毎日出入りする建物だけに、毎回この仏足石が目に入るようになった。


いつも目にするうちに仏足石に縁のある私が、偶然にも仏足石を祀る僧院で出家し、今日このように修行に励むことができたその記念として、ブッダの足跡である仏足石を身近に置きながら瞑想に励みたい・・・そのように思うようになったのだ。


そして、その思いは、日に日に強くなっていったのだ。


修行の観点から言うならば、大変お恥ずかしいことであるが・・・そういったものを『煩悩』というのだが。


ある日、思い切って僧院長である住職にダメ元で『これを私にくださいませんか』とお願いをしてみたところ、なんとふたつ返事で快く私の願いを聞き入れてくださった。


さらに、その場で祝福とそのお守りの裏側に僧院長の署名まで入れて私に授与してくださったのだ。


当時、私はサーマネーン(沙彌)だったので、私の名は“沙彌イトウ”となっている。



『授与する

サーマネーン・イトウ

仏法に栄えあれ

住職の名前

日付』



・

・

・


帰国後は、ずっと大切にしまい込んでいた。


しかし、最近、ふと思い立って、その仏足のお守りを私の机の上へと持ってきた。


そして、いつも見える場所、いつも手が届く場所、いつも手を合わせることができる場所へと置いて、日々の励みとしている。



ここにブッダが立っておられるのだ。


ブッダの足跡がある僧院で瞑想に励んだ。


歩みを止めてはならない。


仏法に栄えあれ!



私は、完成された人間ではない。



悲しむこともあれば、落ち込むこともある。


腹を立てることもあれば、怒りをあらわにすることもある。


恐怖にかられることもあれば、虚しさに襲われることもある。


人を羨むこともあれば、人を恨むこともある。


困ったことに出くわすこともあれば、私の力ではどうにもならないことに出くわすこともある。



そのような時にどう対応するのか?


毎日の生活のなかで学びをどう活かすのか?



仏教や瞑想は、お寺の中だけのものではない。


本の中にだけあるものでもないし、到底理解できないような難解な学問であるわけでもない。


私の毎日の暮らしの中にこそあるものであり、私とともにあるものである。



『いま』『ここ』という言葉をよく耳にするようになって久しいが、『いま』『ここ』をどう生きるのか・・・?


そして、今日という日をどう生きるのか・・・?



そうしたことをこの仏足石は、私に語り掛けてくれているのだ。






【参考記事】

仏足石について大変興味深い記事がアップされているブログです。
ぜひともご一読ください。


・アジアのお坊さん番外編
『アジアの
仏足石』






(『仏足石が私に語り掛けてくれるもの』)






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2026/08/29

お釈迦さまを知らない日本人が増えている!?


タイでお釈迦さまを知らない人はいない。



なぜならば、小学校で仏教の授業があり、基礎的な仏教教理や実践、仏教に基づいた道徳教育や生き方の教育がなされているからだ。



そうしたなかでお釈迦さまの生涯について学んでいくわけである。



もっとも、仏教が生活のなかに溶け込んでいるタイでは、学校で学ばなくとも、ごく自然に知っていくことになるだろうし、いわゆる家庭教育の中で身につけていくことがらでもある。



さて、日本ではお釈迦さまや仏教について学ぶ機会があるであろうか?



保育園や幼稚園を含めた仏教系の学校でない限り、歴史の教科書か高校倫理の教科書くらいでしか触れられていないのではないだろうか。



しかも、学ぶと言っても“釈迦”という人物の存在を知るだけであった、その生涯や思想、生き方や実践までを学ぶわけではない。



お釈迦さまその人の存在すら知らない日本人が増えているというが、そうなってしまうのも無理はない、当然の帰結である。



果たして、日本は仏教国であるといえるのだろうか・・・




たとえば、タイの小学校で学ばれている『慈悲の瞑想』の内容を紹介してみたい。










2022年08月19日掲載の『タイにおける慈悲の瞑想』より一部引用。

(https://tekutekubukkyou.blogspot.com/2022/08/blog-post_19.html)



※引用・ここから





心を管理することとは、心を明るくすることです。清潔で、静けさをもたらし、清浄にする方法です。これは、智慧をもたらします。



智慧を開発することとは、知ることを発達させることです。知ることを使って、問題を解決するのだと理解することです。そのことによって、幸せに過ごすことができるのです。



【心を管理することと智慧を発達させること】



1、お経をあげること



お経をあげることは、三宝に敬意を示すことです。訓練することで、心が明るくなります。お経の訓練は、まず初めに心を落ち着けることを手助けします。サティ(気づき)を生じさせる瞑想の基礎になります。



2、慈悲を広げること



慈悲を広げることは、他の人が善くあるようにと他の人のことを思いながら、心に注意を配り、願いを示すことです。これは、慈悲心のある人になることを手助けします。慈悲の言葉を唱え、他の人に親切を与えることは法(仏教)の実践です。



①正座をし、両手を合わせて、心を静めます。



これは集中です。



②三宝に礼拝することを3回繰り返します。



③三宝に礼拝する言葉(偈文)お唱えし、慈悲を広げる言葉を念じながらお唱えします。



(略:三宝に礼拝する言葉)




《慈悲を広げる》



『サッペー・サッター』



生きとし生けるものは、生・老・病(痛み)・死に苦しんでいる友人たちです。




『アウェーラー・ホートゥ』


幸せでありますように。互いに敵意を持ち合いませんように。



『アッパヤー・パッチャー・ホートゥ』



幸せでありますように。互いに復讐しあったり、危害を加え合いませんように。



『アニカ―・ホートゥ』



幸せでありますように。身体と心に苦しみがありませんように。



『スキー・アッターナン・パリハラントゥ』



身体と心が幸せでありますように。不幸が尽き、苦しみを乗り越えられますように。



慈悲を広げていく実践が終わった時、同時に、心の中で「サートゥ」とお唱えして、手を合わせます。





※引用・終わり





いかがだろうか。



大人にとっても非常に深い学びになる大変素晴らしい内容である。




私が生まれ育った地域には、まだ仏教に触れる機会が残っていた。



各家庭には仏壇があり、仏事があった。



親戚をはじめ、隣近所の人たちが大人から子どもまで集まって一緒にお経を読んだ。



定期的に地区内にあるお寺に集まり、大人も子どももお釈迦さまの生涯の紙芝居を見た。



『花まつり』もあり、お釈迦さまのご誕生を祝い、甘茶をいただいた。




当時は、当然のことながらお釈迦さまについて学ぶとか、仏教について知るとかは、全く思っていなかった。



しかし、そうした中からお釈迦さまのことを知り、仏教に親しんでいった。




ところが、現在はどうであろうか・・・




そうした機会は時代の流れとともに全て消えていってしまった。



そう遠くはない将来、
おそらくお釈迦さまのことも、仏教のことも、何も知らない人ばかりになっていくのだろう。




時代の流れには逆らえない・・・



だが、できることを考え、できることを実践し、行動していかなければならない。




私は、これからも必要だと感じたことは、発信をしていく。



それが、インターネット社会の中に私が投じることができる、ほんのささやかなる一石であると思っている。





【お知らせ】



かねてよりお釈迦さまの生涯を、誰にでも親しみやすい形で学びながら、同時に『今を生きる私自身への問い』として受け取っていただけるような場を設けたいと考えていました。



今回、開催するオンライン勉強会では、“絵本のお坊さん”として親しまれている浄土真宗本願寺派布教使・福間玄猷先生を講師にお迎えして、お話し名画シリーズ『平山郁夫のお釈迦さまの生涯』を用いながら、美しい仏教画とともに、お釈迦さまのご誕生から涅槃までの歩みをたどっていきます。


お子さまとご一緒での参加も大歓迎です。



どうぞお気軽にお越しください。



■オンライン勉強会
『絵本で学ぶお釈迦さまの生涯』
 ↓ ↓ ↓
お申し込みはこちら

(※勉強会は、終了いたしました。
多数のご参加に感謝申し上げます。)





詳細・お申込みはこちら
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・福間玄猷(ふくまげんゆう)先生 Facebook
 https://www.facebook.com/gfukuma


・
【福間玄猷(ふくまげんゆう)先生
  プロフィール】

浄土真宗本願寺派 布教使・源光寺住職。

「絵本のお坊さん」として、仏教の教えを現代社会に優しく手渡す活動を広く展開。 「絵本」を通じた仏教の布教や「いのちの対話」を軸に、世代や場所を越えて人々の心に寄り添う講演や布教活動を全国で行っている。






【関連記事】



・
『タイにおける慈悲の瞑想
~日本の慈悲の瞑想への違和感~』
(2022年08月19日掲載)

https://tekutekubukkyou.blogspot.com/2022/08/blog-post_19.html






(『お釈迦さまを知らない日本人が増えている!?』)





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