あなたは、努力だけで成し遂げられるという信念で進むタイプだろうか?
それとも、天性の才能の存在を認めたうえで進むタイプだろうか?
ある高みに達するには、ただひたすら努力を積み重ねないといけないのか。
その場合、ある一定のレベルにまでは到達するが、それ以上のレベルへと達するには、やはり天性の才能というある種の特殊な能力が必要なのか。
結論から述べることになるのだが、私はどちらもあるだろうと感じている。
しかしながら、決して努力“だけ”では越えられない、確固たる天性の才能は「ある」と考えている。
◆正しく努力するのは
大前提だが・・・◆
努力と言っても、正しい道筋での努力は必要不可欠だということは、どちらの意見であったとしっても前提条件だろう。
誤った道筋での努力は、どれだけ努力しようと実ることはない。
道が間違っていたのでは、どれだけ行こうとも目的地に到達できないのと同じだ。
結果を得ようとするのであれば、正しい努力が必要だということは、誰も認めるところだろう。
一方で、所謂「センス」というか、(好き・嫌い、得手・不得手という意味ではなく)向き不向きであったり、当人にとっての「限界」というものは、厳然として存在していると感じている。
すなわち、「天性の才能」だ。
正しい努力と当人にとって好きなこと(あるいは飽くなき探究心)、さらに「天性の才能」という稀有なる条件が揃ったその瞬間に、人間はある突き抜けた高みへと到達するのである。
◆2人のメダリストにみる
考え方の相違◆
私の人間関係の中に、アスリートでメダリストが2人いる。
双方ともにその種目の世界では、名前が知られた著名人である。
それぞれ違う種目のアスリートなのであるが、実に輝かしい実績の持ち主で、部屋にはメダルや賞状をはじめ、写真や有名な選手のサインなどが飾られている。
それはともかく、大変興味深いことに、この2人のメダリストは、全く逆の考え方をしている。
ひとりのメダリストを仮に「Tさん」とする。
Tさんは、「能力の限界とは、自分自身で作り出しているものである」と主張する。
つまり、ここまでだと思ったら、そこまでになるというわけである。
自分自身で、限界だというラインを作ってしまうことで、自分自身で“天井”の存在を作ってしまう。
自らが自らの成長を阻み、自らの手で成長を止めるのだという。
もうひとりのメダリストを仮に「Wさん」とする。
Wさんは、「人間には、その人にとっての限界というものが、厳然として存在していて、これ以上は不可能だというラインが存在する」と主張する。
つまり、人間の身体は、各個人の作りとして、“そうはなっていない”というものがあり、これ以上は絶対に不可能だというラインがあるのだという。
おそらく、個体差というか、個人差というかであり、同様に能力にも個人差があるという主張だ。
Wさんは、その身体構造として、自分の能力として越えることのできないラインを見たと話す。
とてつもないレベルにまで到達できる人は、決して他者には真似ることのできない「天性の才能」を持っているのであり、その人にだけにしか恵まれていない能力(=身体の構造と天性の才能)なのだという。
さて、あなたは、どちらのメダリストの考え方がしっくりとくるだろうか?
どちらのメダリストも、その世界ではよく名前が知られた有名なアスリートだ。
私から言わせれば、すでに尋常ではない程の高みに達していると思うのだが、金メダルか、銀メダルかを競うレベルの世界だ。
少し想像もつかない世界なのかもしれない。
◆限界を感じた私の瞑想体験◆
さて、私自身の瞑想体験の話題へと戻すことにする。
瞑想には、大まかに言って2つ種類がある。
集中する方向性の瞑想と、観察する方向性の瞑想だ。
観察する方向性の瞑想は、誰にでも可能なもので、能力を問うものではない。
できるか出来ないかは、慣れ・不慣れの問題であり、単にやるかやらないかの差である。
一方で、集中する方向性の瞑想は、人によって得意・不得意、積み重ねの有無、環境の良し悪し、センス(能力)の有無など、さまざまな諸条件が大きく影響すると感じている。
この諸条件は、人によってそれぞれ違うだろう。
努力で集中力を高めていける人、初めから集中することが得意な人、何もせずとも集中へと入っていける人などがいる。
それほど努力をせずに、すんなりと集中の境地へと入っていくことのできる人間が、一定数存在することは確かなことであるし、努力を重ねに重ねて磨いていくタイプの人間もいる。
そのタイプの人間の方が大多数だろう。
その一方で、どれだけ努力を重ねようとも、磨きがかからない人間も、一定数存在するというのも事実ではないかと思う。
これは、単刀直入に言って、センス(能力)だと思う。
残念ながら、私は、集中する方向性の瞑想については、センス無しの部類だ。
だから、もの凄く苦労をしたし、瞑想が嫌にもなった。
厳然たる「壁」を感じたのだ。
私は、こうした経験から、「天性の才能」はあると考えているし、どうにも越えられない壁や天井を認めている。
いや、認めざるを得ないのだ。
◆瞑想はスポーツ根性!?◆
先に触れたメダリストの話題は、かなり高いレベルの世界であり、私たちには少々遠いところのお話であるのかもしれない。
とはいえ、私は、瞑想とは、どこかスポーツに近く、アスリートに通ずるものがあるのではないかと感じている。
ある意味、瞑想とは、「スポーツ根性」いわゆる“スポコン”だと思う。
瞑想も、スポーツも、少しずつ身体に馴染ませていったり、“練習”を積み重ねていくなかで、心を磨き、精神性を高めていく側面がある。
師の指導を受けつつ、自分で試行錯誤しながら、自己の心を磨き、さらに自己の信ずる道を見出していく。
このようなところが、非常にスポーツと近いと感じるところである。
積み重ねていく。
ひたすら継続していく。
自分の習慣としていく。
試行錯誤しながら進んで行く。
悪戦苦闘しながら進むこともある。
精神的鍛練という意味合いも強い。
人間的に磨き上げながら前進して行く。
瞑想とは、心のトレーニングだと表現する人もいるが、まさにそうである。
もっとも、「道」ともなれば、どの分野であっても同じことであるが。
◆努力派か?天性の才能派か?◆
私は、天性の才能は“ある”と思っている。
しかし、自身で限界の天井を作っているとする考えも認める。
天性の才能を認める時点で、限界の天井を作っているではないかと言われそうであるが、自分にとって(身体的に、能力的に)不向きであったり、どうしても越えられない「壁」は、厳然として存在するというのが私の見解だ。
しかし、ここで大切なのは、その「壁」を見るまで、全力を尽くして突き進むことができるかどうかということだ。
さらに、往生際が悪いと言われるまで、その「壁」とやらを越えようと、あらゆる手段を尽くすことができるかどうかである。
ありとあらゆる手段を尽くすからこそ、自身の努力で越えられるものなのかどうか、それとも天性の才能であって越えられないものであるのかどうかが明らかとなるのである。
忘れてはならないのは、私は、こうであるとはっきりと言い切れるまで、やり切ることだ。
そこまでやり切れば、おのずと次の道が開けてくるだろう。
仏教の観点から言うならば、努力であろうとも、天性の才能であろうとも、どちらであってもそんなものは問題ではない。
今、自分が置かれた状況下で最善を尽くすことができるかどうかが問題なのである。
(『あなたは、努力派か?それとも天性の才能派か?』)
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