瞑想を実践しようとした際、気になることがいくつかあるかと思う。
そのひとつが「姿勢」だろう。
特に初心者のうちは、真っ先に気になることのひとつなのではないだろうか。
日本では、例えば、禅などでは、脚の組み方や手の位置に至るまで、全てにおいて細かく定められている。
ところが、タイの瞑想においては、定められてもいないし、それほど厳しく指導されることもない。
指導どころか、坐りやすいように坐って良いと言われるほどだ。
「修行」というものに対して、大変厳しいイメージを持っている日本人にとっては、ある意味拍子抜けをしてしまうかもしれない。
これは、タイのどの瞑想法をとってみても、おおむね同じである。
結論から言えば、特に瞑想時の姿勢は定まっていない。
定まっているとすれば、
「背筋は伸ばす。」
「右足を左足の上にのせて、右手を左手の上にのせる。」
(これについても、瞑想指導書には記載があるのだが、そうでないとならないというわけではないようである。)
ということくらいだろう。
これらは、私の手元にある瞑想指導書に記載があるし、タイの瞑想関係の論文にも記載があるのを確認しているので確かなことであると思う。
ところが、実際の指導としては、それほど厳しく指導されることは無いから、絶対のものではない。
おそらくは、経典や論書によって規定されているわけではないのであろう。
タイ人が日本人の坐相を見ると、あまりの姿勢の良さに大変驚くのだという。
日本人なら誰が坐っても比較的に姿勢が良く見えるからだ。
やはり、「坐禅」や「修行」のイメージが強くあるのだろう。
ゆえに、タイ人たちから非常に褒められ、大いに称賛されるのだそうだ。
実は、私も、そんな非常に褒められたうちの一人である。
私が毎日講堂で瞑想に取り組んでいた姿を僧院長がどこかで見ていたのだろう。
ある日、僧院長からとても褒めていただいたことがある。
私としては、ごく普通に坐っていただけなので、どう受け取っていいのやら、少々複雑な気持ちであった。
ともあれ、大層高く評価していただいていたらしく、大変ありがたく、嬉しいことである。
さて、タイの瞑想が姿勢にこだわらないというのには、一応の根拠がある。
それは、「気づき」や「観察」を重視するからである。
瞑想実践には、三相(無常、苦、無我)を直証する(はっきりと観る、疑いようがなくなるまではっきりとした認識をもつ)という明確なテーマがある。
大切なことは、心身のその瞬間の“状態”に気づくことであるから、たとえ姿勢が悪くなっていたとしたら、その状態自体を「サティ」の対象にして、瞬間的に、かつ連続的に知り続けていくということにある。
ゆえに、その状態自体を観察対象とすることは、どのような場所であっても、どのような姿勢であっても可能であるということから、姿勢そのものにはそれほどこだわらないのである。
「歩く瞑想」や「横になる瞑想」も同様であり、これらが瞑想であることに驚く人も多いのだが、瞑想であり得る所以が容易に理解ができる。
しかし、どのように坐っても良いと言われると、かえって迷ってしまうのかもしれない。
それならば、逆に全て定められていた方が実践しやすいのかもしれない。
人それぞれだとは思うが、まさに、人間とはないものねだりの存在である。
その状態に良いも悪いはない。
その瞬間の状態をサティすること。
「眠ってしまわないようにする」
「上体をまっすぐにする」
瞑想を実践する目的が何かということをしっかりと理解をしたうえで、これらのことに注意しつつ取り組めばいいということである。
繰り返しにはなるが、大切なことは、心身のその瞬間、その瞬間の“状態”に気づくことであるから、たとえ姿勢が悪くなっていたとしたら、その状態を「サティ」の対象にして、瞬間的に、かつ連続的に知り続けていくということにある。
(『瞑想の時の姿勢』)
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