瞑想修行は、基本的には一人である。
他人が入り込む余地はない。
少々厳しく聞こえるかもしれないが、やるもやらないも、自分次第だからだ。
当たり前のことである。
どのように進めていくのか?
どう課題と向き合っていくのか?
・・・全てが自分自身に委ねられている。
他人は、せいぜいアドバイスや提案ができる程度の存在だ。
それが師からの指導であっても同様だろう。
その指導を受け入れて、実践するのは自分自身だからである。
『Forest Sangha Calender 2017・2560』より |
タイの出家生活は、もちろん集団生活であるのだが、瞑想修行となれば、いうまでもなく一人だ。
特に森のお寺にあっては、朝夕の勤行の時間、托鉢と朝食の時間以外は、完全に一人となってしまう。
町のお寺であれば、比丘ばかりの寮ような建物の一室が居室として与えられる。
場合によっては、相部屋だったりもする。
いつも誰かが近くにいるし、決して一人となることはない。
ところが、森のお寺は違う。
広い境内である森の中のあちらこちらに点在している小屋が居室として与えられる。
隣の小屋は見えないほど離れている。
本堂まで歩いて数十分かかるほど離れている場合すらある。
このような環境のため、朝食が終わって、一旦、自由時間となると、その後は、他人と一切関わることがない。
森のお寺の比丘たちは、瞑想修行をするために、あえてこのような環境を自ら選んでいるわけである。
その覚悟ができている人たちばかりの集まりだ。
静かな環境の中で、瞑想修行を全て一人で進めていかなければならない。
瞑想修行は、孤独との戦いだと言っても過言ではない。
時間管理、体調管理、全てが自己管理のうえ、全てが自己責任である。
まさに、「自主」・「自立」・「自律」の世界だ。
しかし、森のお寺での生活は、全てが一人だとは言っても、やはり「サンガ」の一員であり、「お寺」の一員である。
そこには、先生や先輩比丘、同じ修行仲間たちの存在がある。
一人であるのだが、一人ではない。
それぞれの場で瞑想修行を実践しているのだけれども、みんな同じ志を持った仲間の集団なのだ。
だから安心して修行が継続できるのであると思う。
私は、それほど強靭な精神力の持ち主ではない。
だからこそ、整った環境が必要なのである。
その環境のおかげで瞑想を継続できるという側面があるのでないかと思う。
人間は誰でも嫌なことや苦痛なこと、面倒なことはやりたくないものである。
基本的には、怠け者だ。
少なくとも、私はそうである。
いかに環境が重要なものなのか、いかに仲間の存在が大きなものなのかということを痛感するところである。
言うまでもないことであるのだが、ぜひ環境の大切さを知っていただきたいと思う。
できる努力はやるべきである。
できないのであれば、できることを実践するべきである。
私のこのような森のお寺での体験から、今ある生活環境においても、自分が身を置いている環境を整えていく努力を怠ってはならないと痛感するところだ。
(『瞑想修行は一人』)
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