タイの森のお寺では、体系的な瞑想指導というものがない。
(※森林僧院の系列にもよる。)
受け身な姿勢で臨むと、大いに戸惑ってしまうかもしれない。
瞑想には、“学校”のような指導があるものだと思い込んではいないだろうか。
一般的には、指導者がいて、指導を受ける者がいる、という形を想像するであろう。
私もそうであった。
また、今までも、そのような形で瞑想を学んできたため、森のお寺で生活を始めた当初は、大いに戸惑うものがあった。
もちろん、どこの森のお寺であっても、指導者となる方からの助言を受けることはできる。
それは、タイのどこのお寺やどこの瞑想センターであっても、おおむね同じである。
森のお寺が、他と違うのは、特に瞑想についてである。
適宜、その人物、その時の状態や状況、その時の問題や課題に応じた臨機応変な指導やアドバイスがなされるのであるが、全てが「生活そのものを瞑想としていく」という考え方に基づいた指導であるという点だ。
課題に当たったり、問題が発生したりした際には、すぐに指導者に報告し、相談するのだが、例えば、心が散漫であれば、サマタ的な瞑想法を指導されることもあるし、性欲に悩まされているということであれば、死隨念や不浄観のような死を観察するような瞑想を指導されることもある。
この点が、いわゆる瞑想センターなどでの瞑想指導と大きく異なるところで、ある特定の瞑想法のみを専修することをしないのである。
日々のひとつひとつの行為・行動に注意深くなり、よく気づいて、よく知るということを大切にしながら、サマタもヴィパッサナーも併修しつつ、生活そのものを瞑想としていくというものだ。
日々のひとつひとつの行為・行動に注意深くなり、よく気づいて、よく知るということを大切にしながら、サマタもヴィパッサナーも併修しつつ、生活そのものを瞑想としていくというものだ。
当然のことながら、隣の人と同じ助言やアドバイスが得られるとは限らないし、個々人によって異なる。
問題や課題に対して、あるいは日々の生活そのものに対して、創意工夫、試行錯誤しながら、向き合っていかなければならない。
ある意味では、非常に厳しい道である。
最終的には、自分自身で試行錯誤しながら進んでいかねばならないからだ。
それが瞑想修行であり、出家生活なのだ。
具体的な瞑想指導がなかったり、さまざまな対処方法(瞑想方法)を指導されたりといったことに対して、私は、当初、非常に戸惑いを感じ、大いに疑問を感じた。
しかし、その戸惑いも、疑問も、すぐに晴れた。
生活そのものが瞑想だ。
瞬間、瞬間が、気づきでなければならない。
疑問どころか、こうした森のお寺のあり方の方が自然な生き方であり、瞑想の本質を得ているのではないだろうか。
いつしか、そのように思うようになった。
これは、森のお寺での生活に限った話ではない。
還俗後の社会生活のうえにおいても、何ら変わるところがない。
問題に対して、いかに臨機応変に対応できるかが問われる。
どれほど取り乱してしまいそうな場面においても、いかに冷静であり、いかに自己を客観的に観察していくことができるかが問われる。
このようなところも、森のお寺での生活と全く同じである。
毎日が気づきである。
瞬間、瞬間が瞑想である。
森のお寺の教えは、いつも私に語りかけ続けている。
今の私の考え方の基礎は、この教えにある。
森のお寺の教えは、今も、生きている。
参考図書:アチャン・チャー『手放す生き方』サンガ文庫
この書は、アチャン・チャー師の指導をとてもよく伝えているものであり、アチャン・チャー師とその森のお寺での生活がよくわかるものであるかと思う。
より深くタイの森のお寺とその生活、あるいは「生活そのものを瞑想としていく」という在り方の真意がよく理解できるかと思う。
ぜひ、あわせて読んでいただきたい一冊である。
(『森のお寺の教え』)
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