タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/09/29

仏教の瞑想の目的について


私がタイから帰国した頃の日本には、「マインドフルネス」などという言葉はまだなかった。



あったのかもしれないが、少なくとも全く一般的ではなかった。



瞑想も今ほど“市民権”を得てはいなかっただろう。


何やら怪しいものであり、何やら“特別な人”が実践するものであった。



また、すぐに某新興宗教を連想された。



某新興宗教の話題は、よくタイ人からも深く尋ねられ、その度に非常に困惑したものだ・・・。




随分と身近になった「瞑想」ではあるが、身近になったぶん、誤って理解されやすくなっているのが現状であろう。


残念ながら、十分な注意が必要な状況であると言える。 




以前、私が親しくご指導を賜ったとてもお世話になったある先生とお会いさせていただく機会があった。



その際、私が先生に、



「最近は、日本では瞑想がとても流行っているんです。」



とお話しさせていただいたところ、先生は、



「どうしてそんなに流行っているの?」


「みんな何を求めて瞑想するの?」



と尋ねられたのであった。












私としては、ずっと仏教と親しみ、タイへ渡る以前から仏教の瞑想というものに親しんできたこともあってか、どうして「瞑想ブーム」なのかといったことなど、それほど深く考えたことなどなかった。


また、何を求めて瞑想するのかということについても、ごく当然のごとく仏教の実践としてやっているのであって、強いて求めるものと言えば悟りであろう。



先生からの予想外の問いかけに、私は一瞬戸惑ったのだが、少し考えたうえで、



「願望実現でしょうかね。」



と答えた。




なぜならば、近年、やたらと瞑想の「効果」を強調した“触れ込み”が多い。


また、感情に訴えた「願望」の実現を謳っているものもよく目にする。


ゆえに、私は「願望実現でしょうかね。」と答えたのであった。



・・・すると、先生は、



「なるほど。願望実現ね。


むしろ、自分の願望が思い通りにはならないってことを正面から観ていくのが瞑想なんだけどね。


無常だということを知って、消滅、変化を観ていくことなのだから。」



と、なかば呆れた表情でこのように言われたのであった。



まさに先生が仰る通りだ。



それ以上の答えはない。



自分の思い通りにならないという事実を知り、受け入れることに他ならない。


さらには、受け入れることができないからこそ、苦しみが生じるのだという事実を知り、そうした真理を受け入れることだ。


所謂、世間で瞑想の「効果」として謳われているものは、全て瞑想の本質ではない。



瞑想は、断じて自分の願望実現や自己実現、ましてや宇宙からのメッセージを受け取ったり、未知の世界や深層心理の世界との交信などではない。



ただし、瞑想を修していく過程において、結果的に得られることがらがいくつかある。


世間で瞑想の「効果」として前面に押し出されていることがらの多くは、こうした所謂瞑想の「副産物」だ。



言ってみれば、お菓子のおまけのようなものである。



ともすると、この“おまけ”欲しさに、“おまけ”のみを求めてしまいがちではあろうが、瞑想実践者は、瞑想の本質とは何たるかを理解しておくべきであろう。



とはいえ、まずは、「入口として」このおまけである瞑想の「効果」を目的としてもよいのではなかろうかと思う。



仏典の中には似たようなエピソードの記載がある。





『修行がなかなか進まない比丘がいた。

ブッダはその比丘に対して、

「修行をすればこのようなことがある」

ということを示した。

以降、その比丘は、ブッダが示したこのようなことを得たいがために、日夜懸命になって修行に励んだ。


その結果、悟りにまで到達した。

振り返ってみると、その比丘が懸命に修行をして、得たいと願ってきたこのようなことに対して何の興味も無くなってしまった。





といったような内容である。


仏典そのままの表現ではないが、ご存知の方も多いかと思う。










このエピソードが示しているように、おまけはあくまでも入口なのであって、いずれは捨て去るべきものであり、何の意味もないものであるということだ。



瞑想の実践によって、人生とは自分の思い通りにはならないものであると知り、苦しみに満ちているものであると知らなければならない。


そして、執着に値するものなど何もないのだということを体験的に突き詰めていくのである。



もっとも、私たち一般の瞑想実践者にとっては、たとえ、“それ以上のもの”を求めることがなかったとしても、それはそれでよいのではないだろうか。

ただ、その実践者にとって、それまでの縁であったというだけの話だ。


たとえ、それまでの縁であったとしても、瞑想は善ききっかけとなるであろうから、私はそれでも構わないのではないかと考えている。


善ききっかけは、いつの日にか芽を吹いて、成長して、きっと花を咲かせ、善き果報となるであろうから。


ただし、もしも瞑想を伝える側であったとすれば、仏教における瞑想とは何たるかを十分に理解しておくべきであり、重々心得ておくべきことがらである。



(『仏教の瞑想の目的について』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。

瞑想の先生がおっしゃったという
「自分の願望が思い通りにはならないってことを正面から観ていくのが瞑想なんだけどね。無常だということを知って、消滅、変化を観ていくことなのだから。」
そのとおりですよね。
ここを忘れてしまっては、少なくとも仏教の瞑想にはなりませんからね。

一方で、瞑想を始めるきっかけとしては、やはり「願望実現」や「効果」を期待するといったことがあるのでしょうね。そもそも何らかの願望や期待がなければ瞑想なんて始めないでしょうし。
 仏教瞑想の目指すところと、瞑想を始めるきっかけとは、常にパラドックスになってしまうというようなことが、何かの本に書いてあり、そのとおりだなと思ったものです。
私としては、願望実現や効果を期待して瞑想していても、それはそれでよいのではないかと思っています。
そのことでその本人が満足し、実際に効果が実感できるのであれば、悪いことでもありませんからね。
ただ、瞑想初心者にとっては、願望を持って瞑想していても、ある程度の「効果」は得られるのかもしれませんが、
私の経験からも、何か効果を期待したりして瞑想しても、究極的にはうまく行かないことの方が多い感じです。
何も期待せず、全てをありのままに観察し、手放していくことによって、結果として、「効果」?が実感できる感じでしょうか。
たとえ「願望実現」のために瞑想を始めても、瞑想を続けていくうりに、そのあたりがわかってくると思われます。
もしわからなければ、いつまでたっても仏教の瞑想としては失敗するだけですから。
たとえ願望実現を期待していたとしても、まずは実践してみることの方が大切だと思っています。
失敗してもめげない、止めない。とにもかくにもNEVER GIVE UPで継続することで、それが、来世になるかもしれませんが、善い業にも繋がっていくでしょうし。
私なんて、失敗の連続ですからね。

纏まらない文章になってしまいました。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

本当にこれ以上の言葉はないくらいの言葉だと思います。願望実現や効果・効能を求める目的での実践も、瞑想を始めるきっかけとしては、もちろん良いのではないかと思っています。人間というものは、何かしらのメリット・デメリット、損か得かの感情を求めて行動しているものですから。しかし、瞑想を継続していくうえでは、いつまでもそれでは、やはりいけないのではないかと思います。おっしゃるとおり、実践していれば、どこかで気がつくのではないかと私も思っています。真剣に実践すればするほど、です。

とは言え、願望実現に終始してしまうこともあるかもしれません。ですけれども、それはそれまでの縁であったというだけのことです。いつかなにかのきっかけで仏教へと向かうことを期待するしかありません。
近年、あまりも願望実現を謳ったり、強調している“怪しげな”瞑想が多いことには一抹の不安を感じることもしばしばですが。

もしも、瞑想を指導する側であったり、伝える側であったとするのならば、ここはしっかりと理解をしておくべきところであり、瞑想実践者として十分に注意をしつつ進んで行かなければならないところだと思います。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。