タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2018/12/29

歌舞演劇を避けることの意味


クリスマスにお正月。


この季節、街中では流行りの歌謡曲が流れている。

知らず知らずのうちに気持ちが浮き立つ季節なのだろう。



ところが、私は、流行りの歌や音楽はさっぱりわからない。

もっとも、取り立てて興味もないし、それほど関心もない。

聞こえてくるから、聞いている、といった程度だ。



タイの出家生活では、この歌舞演劇(歌や踊り)を楽しむことを禁じられているということは、すでにご存知の通りだろう。


もともと私は、音楽や芸能の方面にはそれ程関心がないため、たとえ音楽のない生活だったとしても、なんら苦ではなかった。

しかしながら、音楽好きの人にとっては大層苦痛な戒律なのではないかと思う。



実は、タイの出家生活の中では、歌や音楽が全く耳に入ってこないのかというと、“それなりに聞こえてくる”というのが実情だ。

タイに在住していれば、たとえお寺であったとしても、嫌でも多少の音楽が耳に入ってくる。

特に、外出の機会があり、街へと出た際には避けようにもどうしても音楽が耳に入って来てしまうのだ。



田舎のほうでは、歌謡曲を大音量で流していることがよくある。

・・・面白いことに(習慣の違いというものは、実に面白いものなので、敢えて面白いという表現を使うが)、托鉢に歩くような早朝から音楽がかけられていることもあるのだ。


日本では、およそ考えられないことだと思うが、おそらく苦情ものだろう。

また、市バスの中でも大音量で歌謡曲が流されていることもよくある。



日本で生活をしている今・・・いつしか私の中では、『タイ』を懐かしく思い出す「タイの“音”」のひとつとなってしまっていた。


今でも、その時に聞こえていた音楽、その時の情景が目の前に浮かんでくるのだ。





~タイで購入した絵葉書より~





歌や音楽というものは、時には人に元気を与えてくれたり、勇気づけてくれたり、励ましてくれたりするものでもある。

心を躍らせてくれる存在なのであるから、在家生活においては良い影響もあると言える。



それは、良き「安らぎ」や良き「空想の世界」へと誘ってくれるものだからなのではないかと思う。

結果、おだやかな気持ちになるのではないだろうか。



音楽や演劇というものは、自身の感情や状況と重ね合わせたり、思い出や出来事などと重ね合わせたり・・・あるいは、特定の音楽と特定のことがらとが関連付けられていたりする。

すなわち、ある特定の経験とある特定の音楽などとが一体となって、心に刻み付けられているということだ。



町や都市へ出かけたあと、静かな森のお寺へと帰ってきた時、一日にどれだけ強い刺激を受けていたのかが改めて実感される。

聴覚による記憶は意外にも大きく、強いということがよくわかる。


さらには、歌や踊りというものが「瞑想」にどれだけ大きな影響を与えるものなのかということをもよく実感することができる。

瞑想に良い影響を与えるものでないということは、言うまでもない。



これも執着のひとつなのだろう・・・。

そんな私にも、非常に心に残っているタイの歌謡曲がある。

音楽に対して全く興味や関心のない私であるが、タイの歌謡曲を聞けば、やはり『タイ』の懐かしい情景が思い出されたりする。


逆に言えば、歌や踊りというものにはそれだけ大きな影響力があり、心の奥底にまで入り込む力があるということだ。

空想や妄想を生々しく掻き立てる力を持っているということの証である。



あんなこと、こんなこと・・・タイで出会った数々の情景が走馬灯のように蘇って来ることがある。

まるで、実際にあの日、あの時、あの場所にいるかのように。


これは、ものすごい「力」だと感じた。

だからこそ、戒律の中において禁じられていることがらなのだと痛感した。



独特の曲調であるタイの歌謡曲を耳にすると、嬉しかったこと、苦労をしたこと、タイで出会ったたくさんの人たちのことを思い出す・・・あの日、あの時、あの場所での出来事を思い出す。



それほどまで深く深く私の心の奥底にまで入り込んでしまっているということだ。


在家生活にあっては、ほどほどの距離感を保って接すればよいかと思うのだが、歌や踊りには、やはりよくよく「注意」が必要だ。


このことは、是非とも心に留めておくべきだろう。



(『歌舞演劇を避けることの意味』)






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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
出家が歌舞演劇を避けるのは、妄想や感情をかき立てることに加え、苦しみや退屈から気を紛らわせ、謂わば現実からの逃避になってしまうからなのでしょうね。テレビやラジオも同じかもしれませんし、インターネットもそうでしょう。ミャンマーの瞑想センターでは、テレビ、ラジオ、ネットすべて禁止です。ただ、在家がこれらすべてを避けるべきなのかは疑問ですけど。悪い意味の現実逃避になってしまっていないか、各自注意が必要ですね。
ちなみに私の場合、十代の頃は、小説が現実逃避の手段になっていたようです。小説を読むと妄想が膨らんで、一~二週間くらいは妄想で時間を潰せてしまうんですよね。二十歳の時、これでは時間の無駄だとフッと気づき、以後、小説を読むのを止めてしまいました。
歌舞演劇だけでなく、自分にとって時間の無駄や現実逃避などになってしまうことには注意していないといけないということでしょうか。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

ご自身で時間の無駄であるということに気がつかれたというのは、非常に素晴らしいことですね。しかも、やめられたとはなかなかできることではないと思います。本当に頭が下がります。

在家生活の中にあっては、「ほどほどに」おつき合いしていくという姿勢でいいのではないかと思っています。どれも生活必需品と言っても過言ではないものばかりですから。

しかし、インターネットやSNSは要注意かもしれません。これらはすでに仕事道具のひとつとなりつつありますが、同じ志を持つ仲間たちと繋がりを持てたり、学ぶことができたりするという良い面がある一方で、知らなければ知らないで苦しまずに済むことや、まさに時間の無駄使いであることも多々あります。ある人は、「インターネットは“煩悩製造機”だ。」と評していましたが、私も本当にその通りだと思いましたね。

現代社会は、さまざまなものが多様化しています。そのなかで何が自分にとって注意が必要なのかということを見極めながら生きていかなければなりません。なかなか大変な世の中になりましたね。・・・とは言っても、ブッダの時代はブッダの時代で結局は同じことで苦しんでいたのかもしれませんが。

感情をかき立ててしまうと「気づき」を忘れてしまいますので、そういったものは避けるべきなのだと私は理解しています。気づきを保ちつつさまざまなものと接していくことができるように精進していきたいものです。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。