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森のお寺の比丘たちは、総じて修行熱心だ。
それもそのはず、森のお寺というのは、修行をするためのお寺で基本的には、誰もが自ら志してここへ来ているのだ。
町のお寺で比丘としての基本を身につけたあと、さらに瞑想の実践や質素な生活に打ち込むことを志す者たちが集うお寺なのである。
ゆえに、町のお寺とは日課も異なるし、生活様式自体も異なる。
そんな森のお寺では、他では見られない少々“特長的な”修行がいくつか実践されていることがある。
ある森のお寺での朝の托鉢風景。
お寺から30分から40分程歩かなければならない。
写真は、托鉢のために 麓の村へ向かって歩いているところで、 後方がお寺の方面にあたる。
早朝の空気は清々しい。 一番手前に写っているのが私。
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すでに前回記事とした「“ひたすら歩く”瞑想」がそうだろう。
歩く瞑想は、タイではごく一般的に実践されてはいるが、ただひたすら歩く瞑想に取り組むというのは、町のお寺では見ないことだ。
こうした森のお寺で実践されることがある修行のいくつかを紹介すると、
〇「眠らない」
〇「断食をする」
〇「部屋に籠る」
などが挙げられる。
まず、「食事を混ぜる」と言うのは、“食”に執着しないようにするための実践である。
森のお寺の比丘は、鉢の中に食べ物を取って食事を行う。
その際、あえて食べ物をかき混ぜて、見た目も、味も、全て美しくないようにしてしまったうえで食するというものだ。
味わうためでもなく、目で楽しむためでもなく、ただただ命をつなぐための「食」であるということをよく吟味しながら食するのである。
次に、「眠らない」と言うのは、目的が二つある。
ひとつは、眠らないことでできる限り「目覚めている」時間を長く保つようにするということで、すなわちサティを保っている時間をできる限り長くするという目的がある。
もうひとつの目的は、「苦しみを真正面から観る」というもので、必要最小限の睡眠以外は、全て怠惰の心であり、欲望であり、煩悩であるのだから、そうした眠気という煩悩や苦しみの感覚を観察していくために実践する。
「断食」の目的も、「眠らない」修行の二つ目の目的と同様のものである。
「部屋に籠る」と言うのは、私は実践の機会がなかった修行ではあるが、徹底的に自己と向き合うための実践だ。
これは、瞑想指導者とよく相談を重ねたうえで、一定期間を定めて実践へと入る。
布薩(月に2度ある戒律の順守を新たに誓う儀式)のように比丘として参加が必須であるもの以外は全て免除され、部屋の外へは一切出ないというものだ。
部屋の中では、ただひたすら瞑想に励む。
食事も部屋まで運ばれ、必要事項があれば筆談で伝える。
会話は一切しない。
話す相手もいないし、誰とも顔を合わすことすらない。
逃げ場は、もうどこにもない。
自己を見つめるしかない。
これは、誰にでも気軽に実践できるものではなく、瞑想指導者から特別な許可を得たうえでないと実践することはできない。
そうした修行だということもあり、実践経験者はそれほど多くはない。
どれも過酷と言えば過酷な実践であるし、どれも極端と言えば極端な実践だ。
これらは、森のお寺だからこそ実践が可能となるものだと言えるのかもしれない。
そのなかから何を学び、どういったことを身につけるのかということは、その実践者次第であるし、各々異なるところだ。
それ以前に、瞑想指導者とよく相談をしたうえでの実践でなければならない。
ある森のお寺のクティ(居室)。
森のお寺は、瞑想の実践や質素な生活に 打ち込むことを志す者たちが選ぶお寺だ。
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私もこれら修行のいくつかを実践したことがある。
確かに、こうした実践によってより瞑想を深めていくことができる人も多くいることかと思う。
ところが、私が得ることができたものは、“微妙”な達成感と大きな挫折感しかなかった。
これは、あくまでも“私は”そうであったというだけの話で、こうした実践自体を否定するわけではなく、意味がないと言いたいわけでもない。
私の段階がまだそこまでしか育っていなかった。
・・・ただそれだけのことである。
私は、その後、こうした他では見られない少々“特長的な”修行法からは離れた。
時間を決めて、規則正しく、毎日変わらず、いつも時間に、いつものように、瞑想を実践していくという方向へと切り替えたのだ。
もしも、私がその段階にまで到達した時にこうした実践をしていたのならば、何かが変わっていたのではないだろうか・・・そのようなことを考えることもある。
しかし、私は、規則正しく進めていくことのほうが自分の性(しょう)に合っていると思うし、そのほうが意義深いと感じている。
なにより、瞑想を指導していただいていた師とそのように決めた。
・・・私は、単にそうした修行の機会に恵まれただけだ。
修行したからと言って、何ひとつ変わるものはなかった。
また、何ひとつわからなかった。
また、何ひとつわからなかった。
大切なのは、いつでもどこででも、感情に巻き込まれずに、気づきを保ち、観察していくことができるかどうかである。
どの修行もそのことを身につけていくための実践だ。
他人とは違ったことを実践したからと言って、驕りたかぶって他人を見下したり、「俺はお前たちとは違うんだ」と言わんばかりに高慢な心を育ててしまうようであれば、それはすでに修行ではない。
これは、誰もが陥りやすい修行の“落とし穴”であって“罠”でもあるから、十分に注意が必要だ。
なぜならば、そうした実践者を私は何人も目にしてきたからだ。
また、何を隠そう・・・情けないことに私の中にもそうした醜い心が厳然としてあるからである。
達成感に酔い痴れて、優越感に満足してしまうような修行であってはならない。
こんな厳しい修行を実践しているんだと得意になり、慢心を育てるための修行であったとしたならば、それは本末転倒も甚だしい。
修行とは、ダンマの実践である。
私たちは、ダンマの実践者でなければならない。
このことだけは、決して忘れてはならないことであると私は思う。
(『修行熱心な森のお寺のお坊さん』)
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2 件のコメント:
ブログ拝見しました。
「食事を混ぜる」と「部屋に籠る」というのは、ミャンマーでも聞いたことあります。
「食事を混ぜる」目的は、ミャンマーでも同じく、食物へ執着しないためです。本格的にやる場合、ご飯とおかずだけでなく、フルーツやお菓子類まですべて混ぜ合わせて食べます。さらに徹底している比丘は、そこにスープ類まで鉢に入れてしまうと聞いたことがあります。スープ類を入れてしまうと、手づかみにしろ、スプーン等を使うにしろ、食べづらいので、一旦、鉢の中の液体部分を他の容器に移してから食べるそうです。お茶漬けのお茶を抜いた状態ですね。
あと、これは私が出家していたときの経験ですが、鉢は底面に僅かに平らなところがあるだけで、他は曲面で構成されているため、自然とおかず類とご飯は中心部に集まってきて、すべて混ざってしまいます。それを手づかみで食べると、さらに混ざってしまい、あえてかき混ぜなくても自然と「猫飯」状態になってしまいます。ミャンマー料理の場合、「猫飯」もけっこうイケたりするので、これで執着が無くなるかどうかは個人差があるかもです。まあ、神経質な方だと、これだけでも、食欲失うかもしれませんが。
瞑想センターでは、すべてサティで食事するので、そもそも味わって食べることがほぼありません。実際、噛む動きに集中することが多いため、味は時々感じるくらいで、とても味わって食べるという感じではありません。セヤドーからも「味わって食べるな」と言われますし。
「部屋に籠る」というのは、10年以上前ですが、確か、マハーシ瞑想センターにこうした施設があったように記憶してます。ただ、現在でも行われているかどうかは確認していません。
「高慢になる修行者」というのは、ミャンマーでも耳にしました。まさに修行の進まない修行者を見下してしまうようです。そもそも「慢」は阿羅漢にならないと無くならないので、いつも自らの慢に気づいていないといけませんね。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
部屋に籠る修行などは、指導者との深い相談や指導が必要ですが、食事を混ぜるというのは任意で実践されることもよくあり、誰にでもすぐに実践できるものです。おっしゃる通り、森のお寺では食器を使わずに鉢を使って食べるので、あえて混ぜようとしなくても自然に混ざってしまうのですが・・・それ以上に混ぜるということですね。
ご指摘の通り、“混ぜる”ということをしなくても、「食べている」こと自体をサティしながら食べるので、味わうことからも、食べ物に執着することからも離れる修行です。
それよりも、そうした修行をしていること“自体”に満足をしてしまうことや、そうした修行を実践しているという“自分自身”に酔ってしまうことの方が問題で、自らの慢心をさらに大きくしてしまったり、その慢心に全く気がつかなかったりすることの方が問題です。
ですから、私は、指導者からも私に対してあえて推奨されなかったということもあり、それほど「食事を混ぜる」という修行には重きをおいていませんでしたし、それほど実践もしませんでした。
もちろん、修行というものはケースバイケースなものなので、個人によって進み具合も、ぶつかる壁も、悩んでいる箇所も、全てが異なり、十人十色なものですから、場合によっては必要なこともあるのでしょうね。
「自らの慢心に気がつく」・・・これは、とても大切なことです。
日常生活の中においても、常に意識していかなければならないところです。サティですね。
コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
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