これは、今でも記憶に残っている。
ある森の寺での朝、ある外国人比丘とともに托鉢へ出かけた時のことである。
村へと向かう幹線道路の脇を歩いていた。
幹線道路のため、バスやトラックなど比較的大きな車が走る。
ビュンと勢いよく私達の横を通り過ぎる度に、衣がひらりと揺れる。
バンコクから地方の都市へと向かう夜行バス。
夜を徹して荷物を運んでいるのであろうトラック。
そうした車が早朝のひんやりとした空気の中を通り過ぎていく。
私達の横を通り過ぎた一台のトラックが私達の先の方で突然停車した。
すると、運転手が車から降り、私達の方へと走って近づいてきた。
托鉢中の私達へお布施をするためにわざわざ車を停めて、こちらへとやって来たのである。
托鉢中の比丘を見かけると、わざわざ足を止めてお布施をしに来る。
タイでは、こうした風景は決して珍しいわけではない。
手元にお布施の品物がなければ、近くにあるお店へと買いに走ることもある。
お店の人も、お布施をするための買い物だとわかるとすぐに客へと品物を手渡す。
代金は、“あと払い”だ。
そして、品物をすぐに持たせて、客をお布施へと走らせる。
こんな風景に何度も出会った。
お布施への思いが伝わってくる光景だ。
衝撃だと表現したのは、そんなお布施の一場面である。
トラックから降りてきた運転手の彼がお布施をしようとしていた品物が「お金」だったのだ。
その外国人比丘は、運転手の彼が鉢の中へとお金を入れようとしたその瞬間、鉢を横へサッとどかしてしまい、お布施であるお金を受け取らなかったようなのだ。
お金は不適切だったとすぐに悟った運転手の彼は、その場で合掌だけして立ち去ったと思う。
・・・実は、この出来事、私にとってあまりにも衝撃的過ぎたために、細部までをよく覚えていない。
(あまりに衝撃的だったため、「鉢をどかしてお金を受け取らなかった」ということだけをはっきりと覚えているのみで、前後のことは記憶に薄い。
うる覚えの記述を何卒ご容赦願いたい。)
その運転手の彼も、比丘はお金を所持してならないということくらいは当然知っているはずである。
しかしながら、托鉢時にお金をお布施するということは、タイではそう珍しいことではなく、しばしば行われていることでもある。
さて、この時、比丘としてどのように対処するべきであったか。
私が知っている範疇では、托鉢の時にこうしたお金をお布施された時には、寺へ戻った後、鉢の中に入れられたお金をサーマネーン(沙彌)や在家者(寺男や寺で働く在家者など)に取ってもらって処理を任せるという方法をとる。
あるいは、托鉢時に受け取ったお金は、賽銭箱のようなお金を入れる箱の中へと入れて、寺へ渡すという方法が取られることが多く、比丘はお金を所持しないように保たれている。
~タイの絵葉書より~ 朝の托鉢風景。バンコク市内の景色であろうか。 比丘は、托鉢へ裸足で出かけなければならない。 人々は、比丘が手に持つ鉢の中へと食べ物をお布施する。 |
この外国人比丘。
この時、どのように対処するのが最も適切であったのだろうか。
私は、上記のように一度受け取り、寺でサーマネーンか在家者にお金の処理を任せればよかったのではないかと思っている。
あるいは、その時、当時サーマネーンであった私が後ろについて歩いていたのだから、私を素早く呼んで、私に受け取らせれば良かったのではないかと思っている。
実際に森の寺の長老比丘へ確認をしてみたところ、それで構わないと言っていた。
もちろん、お金を受け取ることは好ましくはないし、サーマネーンであったとしても好ましくはないだろう。
しかし、お布施を申し出ているその彼の思いを受け取らないのも、やはり好ましくないのではないかと思う。
タイの人々の一日は、お布施から始まるといっても過言ではない。
そんな大切なお布施を無下にすべきではないと私は思う。
戒律順守が厳しい森の寺とはいえ、タイで適切とされているやり方に従っておいても悪くはないのではなかろうかと思う。
解釈が難しいところであるとは思うが、先輩比丘や長老比丘からしっかりと学び、正しく戒律の意味を理解したうえで対処すれば良かったのではないかと私は思っている。
外国人比丘は、戒律運用に対して非常に厳密である傾向がある。
それは、大変良いことではあるが、このエピソードについて言えば、決して気持ちの良い対処ではなかったように感じる。
戒律を遵守することはもちろん大切だ。
しかし、しっかりとその意味を理解しておくこともまた大切だと思う。
そうでないと戒律の順守が形だけのものとなってしまう恐れがある。
このことは、その象徴のようにも思えるエピソードなのではないだろうか。
ここでは“お金”であったが、こういった時にはどのように対応するべきかということを、もっとしっかりと身につけておきたいと感じた一場面であった。
※戒律については、さまざまなご意見があるかと思いますが、ここでは私が聞いたことや感じたことなど、私自身の体験を記述しています。
(『お布施とお金の衝撃エピソード』)
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2 件のコメント:
ブログ拝見いたしました。
戒律を厳守しようとすることによって、相手の心を傷つけたりなど、慈悲の心を欠いしまっては、やはりダメだと思いますね。比丘である前に、人として常識的に振る舞えないということ自体が問題ではないでしょうか。
このケースの場合、まさに筆者のおっしゃるとおり、トラックの運転手の気持ちをくみ取りながらの対応方法はいくらでもあったはずだと思います。
ミャンマーの瞑想センターでは、修行中は、他の修行者との会話は原則禁止です。
でも、新参者に事前に施設利用法のオリエンテーションがあったりするような環境であればいざ知らず、様々な国籍の修行者が新たに入ってきたり出ていったりといった中で生活するので、当然、飲料水の利用法や洗濯機の使い方がわからないなど、どうしても周囲の修行者が教えてあげなければならないことも出てきます。
こうしたとき、新たな修行者が困っていても、あくまでも沈黙を守り通し無視する方と、会話禁止といっても、困っている外国人がいれば親切に教えてくれる方がいるように見受けられます。この場合、ストイックに沈黙を守り通す修行者の方が瞑想が進展するかといえば、そうでもないような気がしています。確かに無駄な会話はよろしくないのですが、目の前に困った方がいれば、必要最小限の会話か、どうしても会話したくないなら筆談やジェスチャーなど、智慧を働かせて助けてあげられるのではないでしょうか。これも抜苦与楽かなと。やはり、周囲の方への慈悲の心を欠いては、修行は進展しないと思っています。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
戒律を順守することはとても大切なことではありますが、判断に迷うこともやはりたくさんありました。記事に登場するような非常にかたくなな姿勢の外国人比丘とも出会いました。
私の目から見てですが、タイでは“都合のいい解釈”というのは少ないように思います。ある程度の年数を重ねている比丘であれば、戒律の意味するところは理解している人が多く、また社会の側もしっかりと理解しているといえる側面があるように思います。これは、多くの人々が一時出家をして、比丘を経験しているということもあるのかもしれません。ですから、先輩比丘や長老比丘の指示に従っていれば、(タイの戒律の解釈というものはありますが)戒律を犯すということはないものと思っています。
タイには、できる限り戒律の生活(≒瞑想の生活)を応援してくれる土壌があります。在家の側も戒律違反になるようなことをあえてはしないものです。このあたりが熱心であるが故の、また外国人比丘であるが故のエピソードだったと言わざるを得ないのではないでしょうか。タイ人比丘であれば、おそらくこのような対処はしなかったであろうし、もっと他の手立てをとっていたものと思うのです。
おっしゃる通り、常識や相手の心を考えない、独善的で独りよがりな姿勢が目立ち、疑問に感じたことがありました。批判的な表現になってしまいますと適切ではありませんが、私が感じたことも、パーラミー様が感じられたように、行き過ぎたストイックな姿勢は必ずしも瞑想を進展させるものではないということのように感じました。
今日の、この生活の中においても、慈悲の心と、智慧でもって生きていくことができるように心がけていきたいものですね。
貴重なお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
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