不安の原因とは一体何なのだろうか?
・・・それは、「わからないから」という一言にまとめることができるのではないかと思う。
「知らないから」
「見えないから」
「経験したことがないから」
“「わからないから」”
結果がどうなるのかがわからない。
どこへ行くのかがわからない。
真っ暗で、先が見えない。
だから、不安な感情が湧いてくるのであり、心配な思いになってしまうのだ。
不安で心配な時、心が乱されてしまった時・・・そんな時こそ瞑想を、というのは前回の記事である。
(→『不安に襲われた時こそ瞑想を』)
まずは、心を落ち着かせること。
たとえ、ほんの少しであったとしても心穏やかな時間を作り、広げ、増やしていくこと。
「わからない」ことへの対処方法もまた、この一言にまとめることができるのではないかと私は思う。
『ウィパッサナー瞑想・修習の導き』の挿絵より (タイ国/ウィウェーク・アーソム ウィパッサナー瞑想センター 刊)
座る瞑想(座禅)の他に、立つ瞑想や歩く瞑想(歩行瞑想)がある。
時間を見つけて日常生活の中へと取り入れてみるのはおすすめだ。 |
そのうえで、得体の知れぬわからないことに対して、すなわち不安や心配に対して、できる限り現実的で、できる限り具体的な対処方法を講じるべきだろう。
そのための基盤となるのが「心の落ち着き」であり、「心の穏やかさ」だ。
わからなければ、できる限り明らかにしていく。
どうすれば、その不安が解消されるのか。
どうすれば、その心配が解消されるのか。
“何を”不安に思い、“何を”心配に思っているのだろうか。
今一度、冷静に考えてみたい。
まだ起きてもいないことを心配していたり、まだ何もやっていないことに対して不安を感じていたりはしないだろうか。
心配していたことが蓋を開けてみれば現実にはならなかったり、やってみたら案外と不安に思うことすらなかったりといったことはないだろうか。
現実になるのかどうかがわからないことで不安に思ったり、心配をしたりする必要などないというわけだ。
すなわち、不安とは勝手な妄想で、捏造だということである。
もしも、その不安な気持ちは、準備が十分でなかったり、準備が整っていないことに起因するものであるのならば、すぐに準備を整えるように努めればよい。
調べることができるものであれば、できる限り調べてみる。
できる限りのことをやってみる。
そうすれば、今の自分に実現が可能なことであるのかどうかの判断もつくことだろう。
できる限りのことをやり切ってはいるだろうか。
今の自分にとっての最善の選択をすることができたのであれば、必ず次にやるべきことが見えてくるはずだ。
不安や心配になるのは、それからでも遅くはない。
もっとも、そこまでやり切っていたとすれば、すでにその時には不安や心配の大部分は解消されていることかとは思うが。
ものごとには順序というものがある。
一足飛びというものは、あり得ないと私は思っている。
原因を考えてみることが大切だ。
そして、順を追って、理路整然と考えてみると、今、自分には何が本当に必要なことなのかがおのずとわかってくるのではないだろうか。
不安や心配は、大いに心を乱す。
手加減することなく、容赦なく乱す。
しかし、どうだろうか。
不安や心配という“負”の方向へと向かう「力」をうまく利用すれば、より良き方向へと舵を切る大いなる「力」となり得るのではないかと思うのだ。
不安に思う気持ちを、原因を探ってみようとする方向性へと転換する。
心配に思う気持ちを、順を追って、理路整然と考えてみようとする方向性へと転換する。
そうすることで、今何をすべきかということを見極め、より確かな歩みを踏み出す力へとつなげることができるようになるのではないだろうか。
まだ、行動していないことをあれやこれやと考える。
これは、妄想であり、捏造だ。
・・・さらには、ああなる、こうなると、決めつける。
それが“危機管理”であるのならば、もちろん非常に有効なことだ。
しかし、あまりにとらわれ過ぎて、あまりに心を乱され、錯乱状態へと陥ってしまうのであるならば、それはやはり避けるべきだ。
解決に向けての方策が明らかでなかったのならば、まずは具体的な方策を検討してみること。
まだ行動していないことに起因するのであれば、まずは行動をしてみること。
準備不足であるのならば、まずは周到な準備を心掛けてみること。
不安や心配の正体を見抜くことで、より現実的な問題解決をはかる方策を見出すことができ、不安や心配の濁流から抜け出すことが可能になるのである。
「今、自分にとって本当に必要なことは何なのかを考えてみる。」
この一言に集約されると私は思う。
私もまだまだ他人に言えるような立場にはないが、少しづつ順序立てて、理路整然と物事を考えられるようになってきたのではないかと感じている。
そして、自信をもって人生を生きることができるようになってきたと感じている。
・・・それはあくまでも、過去の自分と比較してのことではあるが。
仏教は、そして瞑想は、その“力”と“ヒント”を与えてくれるものであると思う。
これには、私は確信を持っている。
そんな当たり前のこと、そんな簡単なこと、誰にでもわかることじゃないか・・・そう思われるに違いない。
ところが、情けないことに私にはそれがわからなかったのだ。
心身の状態をありのままに観察し、瞬間、瞬間に気づいていけるように努め、最善を尽くしながら生きていくように努めれば、まだ見ぬ未来、一体どのようになるのかがわからない未来も、案外、全く恐れる必要はないのかもしれない。
“未来”の「原因」である“今”をただただ整えていくのみ。
そうすれば、結果は自ずと現れる。
それを私に教えてくれたのがタイの仏教であり、タイでの出家であった。
タイの“経本(日本語訳)”より。 |
法(真理)を喜ぶ者は、安らぎに住まう・・・私は、この意味が全くわからなかった。
悟りに至った者だけが理解でき、体験できる、遥か彼方にある境地であると思っていた。
ゆえに私とは無関係な言葉であると感じていた。
しかし、今、この言葉の意味するところがほんの少し、ほんの少しだけ理解ができたように思う。
私の理解など、足元にも及ばぬことだろうけれども、そうか!これがそうなのか!!と、まるで水が大地の中へと浸み込んで行くかのように、私の身体の中へとゆっくりと浸み込んで行ったのであった。
法を噛みしめ、法を味わった時・・・不安に思う必要も、心配する必要も何もないのだということが理解できたように思った。
将来に対する不安ももちろんある。
死ぬことへの恐怖ももちろんある。
だが、このことを思い起こした時・・・
法にしたがって生きれば恐がる必要など何もない。
まだ見ぬ未来を恐れる必要など全くないのだと心が軽くなった。
それこそが“安らぎに住まう”ということなのかもしれないと。
タイの“経本(日本語訳)”より。 タイの寺院では、こうした経本や法話などの小冊子が頒布されていることも多い。 その中には、味わい深い仏教の言葉がたくさん光輝いている。 |
(『不安と心配・・・実は私の捏造!?』)
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2 件のコメント:
ブログ拝見いたしました。
「不安」への対処法、とても参考になりました。
不安になると、どうしても感情的になってしまい、さらに不安の深みに嵌まっていってしまうことがしばしば
あるように思います。そして、その感情に操られたまま行動に移すと、さらに事態は悪化するばかり。
やはり、心の中で生じている感情と現実に起きている出来事の両方を、冷静かつ客観的に観察する智慧が必要と痛感します。これが、出来ているようで、案外、見たくないこと、避けたいことは、ちゃんと調子よくスルー
していたりするのですが。最近、ようやくまだまだ心の中で避けていることがあるなと少しだけ気づくことが
できてきたかもしれません。
「ありのままに見ること」を避けていては何も良い方向には進展しないなと、つくづく思います。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
不安になったり、心配になったりすると、感情という濁流の中へといとも簡単に流されてしまい、冷静に自己を観察して、ありのままに観ることなどできなくなってしまいます。
お恥ずかしい話なのですが、タイから日本へと帰国してから長らく日常生活の中において、瞑想の意味を見出すことができないでいました。そして、見事に「迷走」してしまいました。今まで求めてきた“穏やかな心”など私には到底不可能な境地だ、現実の問題を目の前にして瞑想など全く意味のないものではないかと落胆し、愕然としました。
しかし、今、言えることは、それは私が見ようとしてこなかっただけだったということです。不安や心配の最中にある瞬間、瞬間を観ていくことに努めることこそが心の穏やかさへとつながるものなのだと知ることができたように思います。もちろん、相当に容易な作業ではありませんが、それがよりよき最善の選択へとつながり、結果的に“最善を尽くして生きる”ということへとつながっていくのだと知ることができたように思います。
「原因」である今を整えていくことが、「結果」へとつながっていくものであるという「法」を思った時、不思議と心が穏やかになっていくのを感じました。そこに瞑想の意味を知り、(一時出家を含めた)出家の意味を知り、仏教の意味を知ることができたように感じています。・・・とは言うものの、まだまだすぐに感情に左右されてしまう私です。“迷走”してしまわないためにも、そんな時こそ“瞑想”ですね。
貴重なコメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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