タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2016/05/17

不安に襲われた時こそ瞑想を

不安な時。

心配な時。


・・・一体何を考え、一体何するだろうか。


どうしようもなく心が乱れた時。

どうしようもなく心が沈んだ時。


そのような時・・・一体何を思い、一体何するだろうか。


日々の生活の中では、誰にでも少なからずそのような時があるのではないだろうか。


私など、そのような時ばかりだ。


人それぞれ、さまざまな対処方法をお持ちのことかもしれない。

あるいは、それぞれにそれぞれの気分転換をされていることかもしれない。


日ごろから瞑想実践に取り組んでおられる方にとっては、なんということはない提案なのかもしれないが、不安な時、心配な時、どうしようもなく心が乱れた時、そんな時こそ瞑想することをおすすめしたいと思う。

なぜならば、不安な時、心配な時、どうしようもなく心が乱れた時というのは、さらなる不安や心配に襲われ、大きな心の乱れへと発展し、巻き込まれてしまいやすくなってしまうからだ。

乱れた心は、さらにさらに大きくなり、不安が不安を呼び、心配が心配を呼び込んでしまい、挙句の果てにどうしようもない状況になってしまうのである。


ひとたびそんな状況に陥ってしまったならばどうだろう・・・。

ものごとをはっきりと見極めることができるだろうか。


できるはずがない。


冷静な判断や、冷静な行動など望みようがないだろう。

次の一歩がわからなくなる、すなわち自分のなすべきことがらがわからなくなってしまうことだろう。


心の乱れは、より適切な判断を狂わせ、より適切な選択の見極めを不可能にしてしまうのだ。


こんな経験もまた、ひとつやふたつ思い浮かぶのではないだろうか。

心が乱れた時、まずは、「今」の心の安定を最優先すべきなのではないかと思う。





『ウィパッサナー瞑想・修習の導き』の挿絵より
(タイ国:ウィウェーク・アーソム・
ウィパッサナー瞑想センター刊)





普通に生活をしていれば、心が乱されることもある。

不安にもなれば、心配にもなる。

腹も立てば、どうしようもなく心が穏やかでないこともある。


それがいつもの姿だ。


そのような時、一度、乱れた感情を手放し、心を落ちつかせてみるとよいだろう。


不安は、ひとまず置いておく。

心配は、ひとまず置いておく。

沈んだ気持ちも、ひとまず置いておく。


自己の思考・感情にそれ以上踏み込まない。

自己の思考・感情をそれ以上判断しない。

自己の思考・感情をそれ以上発展させない。


そのまま放っておく。


もし、考えても答えが出ないようなことがらならば尚更のことだろう。

答えが出ないようなことに対して悩み、思いを巡らせ、勝手な妄想を膨らませる必要など更々ないのだ。


冷静に判断し、冷静に対応できるよう心を整える。


そうすれば、現実的に物事を捉えて、より適切に事態へ対処できるようになることだろう。

たとえすぐには答えが出ないようなことがらであったとしても、必ず最善の選択が導き出せることだろう。


穏やかな心でいられる時間を少しずつ増やしていくことこそが大切だ。

今の穏やかさが未来へと繋がっていくのだから。


それが瞑想であると思う。


より“良き”選択と、より“善き”選択。

そして、最善の行為と行動。


心が乱されていては、それらを成し得ることなどできるはずがない。

まずは、「今」の気持ちを整え、「今」の心の状態を整えることこそが重要だ。

それでこそ、最善で適切な判断と選択ができるのではないだろうか。


不安や心配などに振り回されてはならない。

不安や心配の深みに嵌まってしまってはいけない。


『不安に襲われた時こそ瞑想を』


・・・これは、直接、悟りや解脱を目指すものでは“ない”のかもしれない。

邪道だと言われてしまうのかもしれない。

しかし、方向性で言えば、決して間違ってはいないと思っている。


この今、この瞬間、穏やかな心を目指すということは、仏教の大きな流れに沿ったものであると私は確信している。


不安な時。

心配な時。


まずは、「今」の心の安定を大切にしたい。


なぜならば、「今」をただただ“最善”を尽くして生きていくということは、“最善の未来”の原因を整えていることにほかならない。

“最善の今”を生きた結果が“最善の未来”なのだから。

そして、それがまた善き原因となり、善き結果へと繋がっていくことになるのだから。


良くも悪くも、そのように“なる”。

それが仏法であり、ダンマなのである。



(『不安に襲われた時こそ瞑想を』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見いたしました。
不安な時って、その不安な感情に飲まれてしまっているから不安になるのでしょうから、不安な時ほど、その感情に飲み込まれないように、抱えこまないようにするのが最善策だと思いますね。まさに、「不安は、ひとまず置いておく。」そのとおりですね。そのためには、やはり冷静に自らの心身の状態をありのままに観察していくことに尽きると思います。気づきの瞑想です。私の場合、不安感のあるときって、なぜか、胸や肩、二の腕あたりに微細な震え感覚(実際に身体が震えているのではありません)が生じたりします。不安を感じるときの身体感覚を観察してみるのも、不安感そのものから離れる1つの方法かもと思っています。私だけかもしれませんが。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

本当にその通りですね。おっしゃる通り「冷静に自らの心身の状態をありのままに観察していくこと」に尽きますね。一見すると、それで何の問題解決になるのだと疑問に思われることでしょう。私もそのように思っていました。しかし、今の心の穏やかさ、今の心の落ち着き、今の心の安定がなければ、最善の行動をし、最善の方策を講じていくことなどできないと思うのです。お恥ずかしいことに、私は長らくこのことがわかりませんでした。ようやく最近になって、腑に落ちると言いますか、体感したと言いますか、やっと理解ができてきたように思うのです。これを少しずつ少しずつ広げていけるようにしたいです。

私は、特定の時に特定の感覚が生じるということはあまりありませんが、感情の渦から離れることができるのであれば、方法としてはいいのかもしれませんね。おそらく人それぞれに“行動パターン”のようなものがあるでしょうから、無意識のうちに悪い“パターン”へと嵌まってしまわないようにしなければいけません。いつもの「癖」のようなものですから、なかなか観察していくことは容易ではありません。それがわかるということはとてもすごいことだと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。