これは、「心」というものの性質であり、傾向であり、法則であると言えるものである。
日常生活のなかにおいて、このことを知っているのと、知っていないのとでは雲泥の差があるのではないかと私は思う。
さて、近年、「SNS」という言葉をよく耳にするようになった。
SNSとは、英語の「Social Networking Service(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」の略で、「インターネット上の交流を通じて社会的なネットワークを構築するサービス」のことである。
主なSNSを挙げると、「Ameba(アメーバ)」、「Facebook(フェイスブック)」、「Google+(グーグルプラス)」、「Instagram(インスタグラム)」、「LINE(ライン)」、「mixi(ミクシィ)」、「Twitter(ツイッター)」などがある。
先日、“SNSの使用をやめると幸福度が上がる”という、非常に興味深い見出しを目にした。
その見出しに強く関心を惹かれた私は、さらにその記事を読み進めたのであった。
(※ご興味のある方は、「SNS」・「幸福度」などのワードで検索をされると、さまざまな記事がヒットします。)
要約するとこうである。
・・・SNSを利用することで、自分が何を必要としているのかを見失わせてしまう。
投稿されている記事や画像、動画などを見れば見るほど、他者の日常生活の方が素晴らしく見えてくる。
逆に、自分が記事や画像、動画などを投稿することで、他人よりも優れているのだという感情、自慢したいという感情や虚栄心などを増幅させてしまい、他者からの承認欲求を増幅させてしまう。
・・・その結果、幸せを感じにくくなってしまうのだという。
そして、気分は落ち込み、今の自分の生活は全く充実していないという気になり、他者がうらやましいという感情、嫉みや嫉妬、さらには恨み、憎しみの感情などを増幅させてしまうことになる。
あるいは、虚栄心から必要以上に攻撃的になったり、自分が望むような形で他者から承認されずに心がもやもやしてしまう結果を生んでしまうのだという。
確かに、投稿することが多い記事はと言えば、「こんなに楽しいことがあった」、「こんなにも素敵なものを得た」などという話題だ。
人に知られたくもないような恥ずべき内容のものなど、誰も投稿するはずはないだろう。
文字だけではなく、画像や動画などをも目にするわけであるから、視覚と聴覚の双方から、より強く感情へ訴えるものがあることは容易に理解ができる。
こうしてブログを書いている私も、もちろん他人事ではない。
実は、私も上記の分析結果にあるようなことを実際に感じたことがあり、非常に身近な話題としてこの記事に興味をもったのである。
タイ・バンコクにあるワット・スタットにて撮影したもの。 この写真は、広い境内の一角にある扉に描かれている装飾画。 私と親しくしてくれた友達の比丘を訪ねた際に彼が記念にと撮影してくれた。 現在ならば手渡しではなく、データでパソコンからパソコンへと送受信されるのだろうか。 |
知ることができなかったことを知ることができるようになったという点においては、非常に便利になったと言える。
人と人とのつながりも格段に広がったとも言えよう。
しかしその反面、知らなくてもよいことを知ってしまうことで、かえって苦しみを生んでしまうということもある。
そうした側面もあるのだということを知っておかなければならないと思う。
他人の生活を見てうらやましく思う。
他人の充実を知って嫉妬する。
他人の幸せな姿に憎しみを覚える。
あるいは、他人との比較で、自己を卑下し、嫌悪する。
負けじと見栄を張り、さらに苦しくなる。
そんな経験の一度や二度、心当たりはないだろうか。
SNSは、ネットワークを広く構築するには、非常に便利な手段である。
単なる趣味や娯楽という範囲を超えて、ビジネスに活かしているという方も多いのではないかと思う。
さまざまな分野で世界規模が基本となった現代社会においては、もはや必須の手段であるのかもしれない。
タイでは、必要以上に他人への干渉はしないという傾向があることは、他の記事のなかでも何度かご紹介している。
思えば、タイで瞑想の指導を受けていた時も、
「他人がどうであったとしても、あなたには関係ありません。」
「他人のことをどうこう言ったとしても、どうこうできるわけではありません。
あなた自身のことしかどうこうできないのです。」
「ただただ、あなたのことに集中しなさい。」
などと指導されたことがある。
他人の状況が気になるのは、普段生活している時も、瞑想実践をしている時も、やはり同じだ。
日常の“癖”というものは、そう簡単には修正できるものではない。
だからこそ、意識的にこつこつと実践せねばならないのである。
私は、そこを指導され、戒められたことは、一度や二度ではない。
心というものは、放っておくと散漫になるものだ。
あれこれと気になり、あちらこちらへと飛んでいってしまうのである。
関心の向かないものは、さらりと消え去り、忘れてしまう。
関心の向くものには、執拗に、これでもかと執着してしまう。
少しでも瞑想を経験されたことのある方であれば、『注意を向ける方向へ意識は向かう』ということが実感をもってご理解いただけるのではないかと思う。
他人のさまざまな投稿を見て、自己の関心事を刺激され、いろいろなかたちでもって囚われてしまった結果、苦しみを感じ、幸せを感じられなくなる破目に陥ってしまうというわけである。
まさにタイで瞑想実践をしていた時に指導されたことがらは、こうしたことを指摘し、指導するものであったのだ。
今更ながらに、“瞑想だけ”に対する指導だったのではなく、今を生きる私へと繋がる指導だったことに気づかされた。
「心」というものは、いかなるものなのかを正しく知ったうえで、「心」といかに向き合っていくのかが問題となる。
たとえ嫌な感情を感じたとしても、他人を羨ましく思ったとしても、そうした感情を抱いたという事実に留め、それ以上深入りをしないことである。
ただ単に“そうした感情”を抱いたということを知り、気づいていくことで、自己の感情の濁流のなかに巻き込まれていくことは少なくなる。
そして、心の波風が静まれば、他人の幸せに左右されることも、より少なくなることだろう。
あまりに思い悩み、あまりに気分が重たくなるようであれば、ある記事で指摘されていたようにSNSは利用しないか、距離を置くことをおすすめしたい。
いつも通りに過ごしていれば、ついつい、他人へと注意が向かってしまうものだからだ。
他人との比較のなかに自分の幸せがあるわけではない。
他人との比較によって自分の幸せが変わるわけでもない。
他人が何をどのように楽しんでいようとも、自分の幸せには全く関係がないのである。
他人の幸福の尺度と、自分の幸福の尺度も決して同じではない。
自分は自分の道を歩んでよいのである。
知る術がなかったであろうことをSNSという手法によって知ることができるようになり、しかもリアルタイムで知ることができるようになった。
このブログもそうした恩恵に与っている。
悪い側面だけではなく、こうしたよき側面もあるだろう。
心の性質、すなわち心の法則を知り、SNSのメリット・デメリットを理解したうえで、程良い距離感を保ちつつSNSを利用していけばよいのではないかと私は思う。
事象の生滅変化を観察していくことが瞑想の目的ではあるが、こんなところにも気づきが活かされ、繋がってくるのではないだろうかと感じた。
自己の状態を正しく知り、自己を冷静に洞察していくこと・・・決して簡単な作業ではないが、そうした姿勢を心がけていくことはできるのではないかと思う。
(『SNSと幸せの感じ方』)
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2 件のコメント:
「SNSをやめると幸福度が上がる」というのは、本当かもしれませんね。
私自身は、一応SNSは利用してますが、あまり深入りしないようにしています。なので、SNSを通して嫉妬したりといったことはほとんどないのですが、時間の浪費だなと感じることは多々ありです。インターネットの無かった二十数年前が懐かしいです。
「注意を向ける方向へ意識は向かう」まさにそうですね。やはり感情に流されること無く、気づきを持って冷静にありのままに観る努力を続けていくしかないと思います。これって結構難しいことなのですが、くじけず(たとえくじけても)、こうした努力を続けていくことが大切だなとつくづく思います。
それと、ミャンマーのセヤドーからも、「周囲や他人のことを気にせず、自分自身の心身に生じることのみに集中しろ」とよく言われます。たしかダンマパダにも、「他人のしたこととしなかったことを見るな、自分のしたこととしなかったことだけを見よ」というような偈文があったように記憶しています。こちらも簡単そうで、さにあらずですね。とにかく精進していくしかありません。
パーラミー様
コメントをいただきましてありがとうございます。
そして、ブログをお読みくださいましてありがとうございます。
おっしゃる通りですね。なかなかできることではないんですよね。しかし、できないのかもしれませんが、やろうと努める姿勢、心掛けようとする姿勢こそが大切なのではないかと思うのです。
ですので、私は、この心というものはいかなるものなのかということを知らないでいるよりも、ただ知るだけであっても十分に有意義なのではないかと感じています。
管理者は“私”(語弊のある表現ですが、誤解のないように願います。)であるはずなのに、インターネットに自分の心を管理されてしまっているんじゃないのかな・・・とも思える人を時々見かけます。おそらく、本人は全く意識していないだろうと思いますが、心は相当に穏やかではないはずです。これでは本末転倒ですよね。
インターネットは、これからもさらに発展していくであろうと思われますが、今後、人間との関係はどのようになっていくのか一抹の不安を感じます。
まさにインターネットは、便利にしてくれる反面で、「新たなる苦しみ」を作っている、あるいは「煩悩製造機」なのかもしれませんね。
おっしゃる通り、私がなすべきは、とにかく精進していくしかありませんね。
今後ともよろしくお願い致します。
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