このようにブログとしてまとめていて、今、少しだけ師が私に伝えようとした真意に改めて気づかされたように思う。
それは、なによりも、仏教の表面的な「形」を求めるのではなく、生き方としての「本質」を求めよということを伝えたかったのではないだろうか。
それは、前編で帰国後に私が歩んだその後について、
『そうした心の状態を反映した道となってしまった』
と記したが、まさにそうした“心の本質”を見抜いたうえで、仏教を生きろということなのではなかったかという気がするのである。
私がなりたいとは思わなかった日本の僧侶になりたいと思ったのは、前編の冒頭で記したように、
『それでも日本の僧侶になりたいと思ったのは、やはり日本の社会の中においては、最も仏教に近い位置にある“職業”だからだ。』
というものだった。
私が自分自身で記している通り、私はもしかすると“職業”としての僧侶を目指していたのではなかったか・・・。
師には、そうした私自身にも見えていなかった私の内面が見えていたのかもしれない。
いわゆる“渡世”としての僧侶には、おそらく生き方としての「本質」などはない。
いつか本山で講師として法話をしていた布教師となった先輩のように。
先輩を悪く言うつもりは全くない。
むしろ応援したい。
しかし、当時の先輩には、生き方としての仏教の本質を見ることのできる余裕はなさそうであった。
・・・少なくとも私の目からはそのように見えた。
私も、もし僧侶となっていたならば、その先輩のようになっていたのかもしれない。
『僧侶という職業』
『資格となった僧侶』
の記事の通り、他の職業に就こうとも、僧侶という職業に就こうとも、仏教の本質を生きているのか、あるいは生きていないのかは全く関係がないと言える。
おそらく、職業としての僧侶となれば、間違いなく仏法から遠ざかっていたことであろう。
私が僧侶となることによって、かえって仏法に沿った生き方から遠ざかってしまう・・・。
それでは、本末転倒である。
もしかしたら、師からの言葉は、そうしたことを意味していたのではないかと感じるのだ。
いや、きっとそうに違いない。
あくまでも、私は師の真意を推し量ることしかできないが、今思えば、それが師の私への「お育て」だったのかもしれない。
日本の寺の世界は、世間の人が思っているほど“清浄な”場所ではない。
それは、このブログでも書いている通り、学生時代にこの目で嫌というほど見てきている。
檀家さん・信者さんへのご案内・・・世間で言う“顧客管理”か。
参拝のご案内・・・世間で言う“集客”か。
法要・・・世間で言う“イベント”か。
非常に罰あたりで失礼な表現ではあるが、実際に寺の中ではそのような感覚で運営されている一面がある。
ある寺の中では、僧侶が隠語として「寺」という組織のことを「会社」と言っているのを耳にしたことがある。
私は、思わず苦笑してしまったが、寺が会社と変わらないのも事実であると思う。
金や財産の話もあれば、地位や権力の話もある。
もちろん、出世どうこうの話もある。
色の方面の話もある。
一般企業と全く同じである。
仏教という「殻」をかぶっているだけである。
仏教という「殻」をかぶっていることが学生であった当時の私をさらに苦しめた。
一般社会に金や地位、出世に色の話があるのは当然であり、いたって普通のことだ。
なんの抵抗感もない。
ところが、仏教だ。
そのギャップにショックを受けたことをはっきりと記憶している。
大学卒業後、「僧侶」という「職業」を選ばなかった理由だ。
いや、“選べなかった”理由である。
真摯な仏法者の方へは大変に不快な思いをさせてしまう表現ではあるが、私がたまたま見た寺の世界がそうであったのであり、単に運が悪かったのだと大目に見ていただきたいと思う。
そして、このショックが私の中では大きな位置を占めていたということをご理解いただきたいと思う。
数回の記事にわたってタイの仏教と比較しつつ、僧侶という職業、僧侶という資格というものに注目しながらブログのなかで自分の思いを整理してきた。
僧侶も一般の社会人も全く変わらない。
そうした環境に入っても意味がない。
仏教は儀式ではない。
職業でもなければ、資格でもない。
仏教の本質を体得して欲しい。
真理に沿って生きていって欲しい。
仏教の生き方をして欲しい。
師は、私に対してそのように伝えたかったのではなかったか。
また、私をそのように育て、導きたかったのではなかったか。
師は、日本の僧侶の世界に生きている人だ。
僧侶の世界のことは、私よりもはるかに知り尽くしているはずだ。
私が記事としてまとめたこと以上に、思うところは山ほどあるはずである。
師は、私にそうした世界には染まって欲しくはないと思ったのかもしれない。
最後に師は私に言った。
「私は、たまたま衣を着ているだけです。あなたには必要ありません。」
今、その真意が少し理解できるようになったような気がする。
そして、師の言葉はやはり正しかったのだと思う。
日々、今を生きる中で、どう生きていけばよいのかが少しづつわかってきたような気がする。
次の一歩をどう踏み出せばいいのかを。
今、どういう選択をすればよいのかを。
日本の寺の世界は、世間の人が思っているほど“清浄な”場所ではない。
それは、このブログでも書いている通り、学生時代にこの目で嫌というほど見てきている。
檀家さん・信者さんへのご案内・・・世間で言う“顧客管理”か。
参拝のご案内・・・世間で言う“集客”か。
法要・・・世間で言う“イベント”か。
非常に罰あたりで失礼な表現ではあるが、実際に寺の中ではそのような感覚で運営されている一面がある。
ある寺の中では、僧侶が隠語として「寺」という組織のことを「会社」と言っているのを耳にしたことがある。
私は、思わず苦笑してしまったが、寺が会社と変わらないのも事実であると思う。
金や財産の話もあれば、地位や権力の話もある。
もちろん、出世どうこうの話もある。
色の方面の話もある。
一般企業と全く同じである。
仏教という「殻」をかぶっているだけである。
仏教という「殻」をかぶっていることが学生であった当時の私をさらに苦しめた。
一般社会に金や地位、出世に色の話があるのは当然であり、いたって普通のことだ。
なんの抵抗感もない。
ところが、仏教だ。
そのギャップにショックを受けたことをはっきりと記憶している。
大学卒業後、「僧侶」という「職業」を選ばなかった理由だ。
いや、“選べなかった”理由である。
真摯な仏法者の方へは大変に不快な思いをさせてしまう表現ではあるが、私がたまたま見た寺の世界がそうであったのであり、単に運が悪かったのだと大目に見ていただきたいと思う。
そして、このショックが私の中では大きな位置を占めていたということをご理解いただきたいと思う。
数回の記事にわたってタイの仏教と比較しつつ、僧侶という職業、僧侶という資格というものに注目しながらブログのなかで自分の思いを整理してきた。
僧侶も一般の社会人も全く変わらない。
そうした環境に入っても意味がない。
仏教は儀式ではない。
職業でもなければ、資格でもない。
仏教の本質を体得して欲しい。
真理に沿って生きていって欲しい。
仏教の生き方をして欲しい。
師は、私に対してそのように伝えたかったのではなかったか。
また、私をそのように育て、導きたかったのではなかったか。
師は、日本の僧侶の世界に生きている人だ。
僧侶の世界のことは、私よりもはるかに知り尽くしているはずだ。
私が記事としてまとめたこと以上に、思うところは山ほどあるはずである。
師は、私にそうした世界には染まって欲しくはないと思ったのかもしれない。
最後に師は私に言った。
「私は、たまたま衣を着ているだけです。あなたには必要ありません。」
今、その真意が少し理解できるようになったような気がする。
そして、師の言葉はやはり正しかったのだと思う。
日々、今を生きる中で、どう生きていけばよいのかが少しづつわかってきたような気がする。
次の一歩をどう踏み出せばいいのかを。
今、どういう選択をすればよいのかを。
仏法、すなわち真理とは、気づいていても、気づいていなくても、信じていようが、信じていまいが、あるいは他に何かの理論を信じていようが、そのようなことは全く関係がない。
真理は、そのようなこととは関係なく、常にこの世界全てに流れているものである。
その真理に沿った生き方とは、どういったものなのかが少しだけわかってきたような気がするのである。
もちろん、まだまだ迷うこともある。
まだまだ苦しむこともある。
まだまだ悩むこともある。
私は、まだそんな凡夫である。
だからこれからも、私は真理に沿った生き方とは、どういったものなのかをさらに求め続けていく。
今、このようにして自己を振り返り、ブログとしてまとめる機会を得ることができたことをとても幸せに思う。
感謝。
(『師の言葉であるのなら ~目標を失った私~ 後編』)
真理は、そのようなこととは関係なく、常にこの世界全てに流れているものである。
その真理に沿った生き方とは、どういったものなのかが少しだけわかってきたような気がするのである。
もちろん、まだまだ迷うこともある。
まだまだ苦しむこともある。
まだまだ悩むこともある。
私は、まだそんな凡夫である。
だからこれからも、私は真理に沿った生き方とは、どういったものなのかをさらに求め続けていく。
今、このようにして自己を振り返り、ブログとしてまとめる機会を得ることができたことをとても幸せに思う。
感謝。
(『師の言葉であるのなら ~目標を失った私~ 後編』)
6 件のコメント:
ブログ拝読させていただきました。
ブログ主様の師のお言葉、心の深いところに沁みいるものでした。
私は出会う人とお話をする時に、何故僧侶にならないのか、と質問されることがあります。
そのたびに、仏道とは僧侶になることではないのです、常に今を観察し、今をしっかり生きることが大切なのです、とお話しさせていただくのですが、なかなか難しい。在家で仏道を歩むというのは形がない分中途半端に見られがちなのですね。
これは、一番は私の精進不足だと思います。私の中に、認められたいという思い、僧侶に負けてなるかという怒りがあるので、それがにじみ出ているのでしょう。
ですが、やはりこの道でいいのだな、と、私もまた励まされた思いです。
ありがとうございます。
坐馳様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。毎回、私の心に深く響くコメントをいただき、何度も何度も反芻しております。
坐馳様、全く同感です。私も同じく僧侶になったらいいじゃないかとよく言われます。しかし私はいつも「縁がなかったんでしょうね」くらいにしか答えることができません。そのたびに、なにやらもやもやと、どこか悔しい思いを感じてきました。
その悔しい思いの正体は、やはり私の中に「僧侶」という「形」を求めたい気持ちがあるのと、ご指摘のように『認められたいという思い、僧侶に負けてなるかという怒りがある』ことだと思います。私も全く同じですよ。
ところが、そのあたりの私の内面がおそらく師にははっきりと見えていたのでしょうね。私は全く気づいてもいませんでしたけれども・・・。あの言葉は、間違いなく師の私へのお育てだったのでしょう。
僧侶という形への気持ちやこだわりは、仏法の深まりとともに少しづつ消えてゆくものなのかもしれません。
師の言葉の通りに道を進んで間違いはなかったと思った瞬間でした。
善き仏法の友を得た気持ちです。私の方こそとても励ましていただきました。本当にありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。
遠い道のりに見えて、いつでもそこに道はあるのでしょう。
今、できることから焦らず、弛まず、淡々と。
共に精進していきましょうね。
ブログ主様に三宝のご加護がありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
失礼いたします。
いただきましたお言葉、しっかりとかみしめさせていただきたいと思います。
三宝の限りない威力によって、日々明るく穏やかなものとなりますように。
本当にありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。
ブログ読ませていただきました。
仏弟子つまりお釈迦さまに縁のある人は、
大きく分けて2タイプいます。
縁覚と声聞です。
あなたが縁覚なら話ははやかった。なぜなら、わたしも縁覚だからです。
真理を得たいのなら、12因縁を理解しろと
言えるからです。
でもあなたは声聞のようだから、今の、末法の時代の日本で、真理を得るのはとても難しいことだろうと思います。
お釈迦さまがおられませんからね。
よく、その苦しみに耐えられましたね。
お釈迦さまの説かれた道を守り、仏道を歩いておられるとあなたが確信されているお師匠
その人についていくといい。
必ず、あなたは真理を得る。それはとても近くにあります。真理を得たならばあなたの苦しみはなくなるでしょう。
そういうものなんです。お釈迦さまの説かれた道は間違いがありません。
もう一度、原典(パーリ語経典)を読まれるとよろしいかも?
真理を得たとしても、完全に悟ったわけでは
ありません。悟りの第一歩に入っただけです
だけども苦しみの大部分はなくなります。
この言葉を希望に思って、お師匠さんに学び
尊び、生きてください。
あなたが真理に到達せんことを心より願って
おります。
hikaru kenpo様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、非常にはげみとなるコメントをいただきましてありがとうございます。
おっしゃる通り、私もお釈迦様の説かれた道は間違いがないと思っております。
自己の心が変わってくると、それにともなって人との出会いや遭遇する事象などが変化してくるように思います。そして、おそらくはその先には真理に到達できるという一筋のはっきりとした道筋が見えた気がしており、さらにそれが確信に変わりつつあります。
さて、『真理を得たならばあなたの苦しみはなくなるでしょう。・・・真理を得たとしても、完全に悟ったわけではありません。悟りの第一歩に入っただけです。だけども苦しみの大部分はなくなります。』というコメントでいただきましたお言葉についてですが、私はそのような境地にはまだまだ至ってはおりませんが、「まさに、その通り」だと思います。やっと身近に感ずることができたと言いますか、やっとこの身のこと、この私自身のこととして、その意味が理解ができたように思います。
まだまだ遠いのかもしれませんが、真理に到達できるようにしっかりと生きてまいりたいと思っております。
貴重なお言葉、本当にありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。
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