学生時代には、仏教の勉学に励んだ。
仏教の勉学を深めていくにしたがい、仏教とは非常に合理的な、または非常に科学的なものであると感じるようになった。
学べば学ぶほど否定のできない領域に行きつく。
世間のイメージする仏教では全くもってない。
葬式でもない。
儀式でもない。
抹香臭いものでもない。
なにやら縁起の悪いものでもない。
霊がどうこうというものでもない。
それは、ひとつの「法則」のようなものだ。
まさに、世の中の真理、ルールである。
仏教が言っていることは正しいと思う。
しかしながら、どうしても悟りというものがわからない。
それが、体感できない。
仏教がわからない。
教学を一生懸命に学んだ。
先人の経典解釈も学んだ。
だが、それによって私自身の苦悩を越えられないのであれば、それらはまったく意味がない。
そう思った瞬間、すべての仏教の学問への興味がなくなってしまった。
すべては、単なる言葉遊びではないか・・・
机上のものに過ぎないではないか・・・
2600年もの間受け継がれ、多くの人々に受け入れられてきた仏教。
それは、万人に理解ができたものであったことの証ではないか。
仏教とは、もっともっとシンプルで、誰にでも理解ができる教えであるに違いない。
そうであるならば、仏教の悟りというものも、きっと、この私であっても得られるはずのもの・・・。
理解ができるはずのもの・・・。
そうでなければ、これほど多くの人々に受け入れられるはずがないではないか。
だから、私は原始の姿の仏教にひかれたのだ。
だから、私はタイへ行ったのだ。
でも、元の木阿弥になってしまった。
もう、全て忘れてしまった。
大学での学問も。
今まで聴いてきた法話も。
そして、タイ語も。
それでもどこかで今も仏教を求めている。
私にとって仏教とは・・・?
苦悩を超えるために仏教を求めるのか?
それとも仏教を求めた結果、苦悩を超えていることになるのか?
それは、今の私にはわからない。
求めた先には何があるのか?
もしかしたら、何もない、何も得られないのかもしれない。
そんな恐怖感にも似た感情に襲われることもある。
苦悩を超えたいから仏教を求めようとする思いももちろんある。
一方で、仏教には何かがあるという直感のようなその思い。
いまだ苦悩を超えずにいる。
苦悩の真っただ中。
ただ、言えることは、幼少の頃よりひかれる世界であり、好きな世界である、それが私にとっての仏教であるということ。
この私が苦悩を越えることが可能な道であるのかどうか、あるいはいつかは苦悩なき穏やかな日々を送ることができるのかどうか。
そして、この私に悟りを得ることができるのかどうか、いや近づくことができるのかどうか・・・知る由もない。
日々の生活は、苦しいことや辛いことの連続だ。
様々な激しい感情の渦に飲み込まれ、流されていく私。
そんな感情の濁流がほんの一時だけ穏やかな流れとなった時、こんなことを考えた。
(『雑感 ~求めた先には何がある?~』)
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